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声(後)(連載)

「――それでその館長がまた変な人で、なんて言うかうさん臭いっつうか」
「へえ、どんな風に?」
「どんな風に……声真似がものすげえ上手いとかですかね」
「うさん臭いほどすごいの?」
穂江は絶え間ない笑顔で相槌を打っている。しかしそれも備府の緊張を完全に解くには至らなかった。誰かと二人きりになるだけでも多大なストレスを感じる備府にとって、『さして親しくない女性とデート』というハードルは高すぎた。
「そりゃ、もう、気味悪いくらいに。自分の声はあんま聞いたことないからあれっすけど、矢追とか聞き分けつかなかったっすよ」
「すごいわね、どうやって習得したのかしら」
「矢追が訊いたら生まれつきだって応えてました」
沈黙が怖い彼は必死に言葉を繋ぐ。しかし「世間話」をしようとすると必ず矢追が登場するはめになるのだった。
共通の知人であるという要素より、備府のごく狭い「世間」に矢追ががっちりと食い込んでいることが原因と言えた。
「――――だと私は思うのよ」
「あ、こないだ矢追もそう言、」
テーブルの下で膝に汗をこすりつけていた手が止まる。
また矢追か。
備府はうなだれた。
「あの、穂江さん」
「うん?」「お、俺なんかと一緒にいてつまんなくないですか」
「……そういうこと言わないの。私は楽しいわよ」
穂江は笑ったまま困って見せる。
「すいません…」
「上映時間までには間があるけど、出ましょうか。お店冷やかしながらゆっくり歩きましょう」
「……はい」

「もちもちしてて〜」
「ふよふよしてて〜」
「何とも言えない滑らかさと」
「張りを兼ね備えていて〜」
「もうそこだけちぎって家に持ち帰りたい」
「ずっと触ってたい」
「……人が買い出しから戻ってみたら一体何の話を…いややっぱり教えなくていい」
「堂仁も一回は触るべき!あれは奇跡!あの部分だけまるで天使のようだから!」
「あれを知らないなんて人生のいくらか損してるよ!」
「知るか!いくらかってどれくらいだよ!……ほどほどにしとけよ、顔をいじられるなんて嬉しいもんじゃねえだろ」
「耳たぶもまた格別!」
「まさに至高!」
「聞いてねえなお前ら」
「堂仁!なんか面白いことして!」
「堂仁!膝枕して!」
堂仁は無言で二人の額を弾いた。
「「痛」」
声が重なったのがツボにはまったらしく二人はケラケラと笑う。酒の空き缶の数からして、完全に酔っていることは間違いなかった。
「仕方ねえなあ」
堂仁は微笑む。

「どうだった?映画」
「……ちょっと俺には難しかったです」
全く異なる世界観の三本の映画が混じりあっていく、という話だったように思う。
あまりの情報量に今も目が回っている。
「真面目なのね」
紫蘇の葉の精が登場したところで考えるのやめちゃったわよ、と穂江は言う。
「……渦巻の世界チャンピオンって何なんでしょうね」
最後に「理想の渦巻」を求めて消えてしまう男が印象的だった。
「渦巻をつくるのかしらねえ」
「声が…」
はたと気付く。
「?」
「声が、矢追に似てませんでしたか」
どうしても確かめたくなり備府は口に出した。
「そうかしら?」
穂江にはピンとこないようだ。
「あの、オウム貝の渦巻について語るところが」
「うーん」
日の落ちたばかりの道を駅に向かって歩いている。人は多い。
矢追の声を思い出す。穂江にはああ言ったものの、そう似ていないような気がしてくる。
『かわいいなあ備府』
不意にはっきりと矢追の声が備府の頭に響く。
思わず立ち止まった。
穂江は気付かず進み、人波に飲まれてしまう。
渦巻男の声は『かわいい』と呟くときの矢追の声によく似ていた。オウム貝を褒めたたえる声音は備府を困惑させるあのときの矢追の声音だった。
穂江が知ろうはずもない。

備府は考えるのをようやくやめた。
しかしすぐ、もし矢追とだったらはぐれないだろう、自分が立ち止まった瞬間に奴は気付くはずだ、などと思うのだった。
あまりに女々しい、とかぶりを振り、備府は穂江を追って駆け出した。
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