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26日だけど夜が明けてないからセーフ

「矢追、俺が今欲しがってる物なんだかわかるか」
「なんだろう」
「椅子」
「キス?」
「椅子。車みたいな値段の椅子」
漫画家は腰が資本だろうが、と備府が睨み上げる。
その三白眼がいとおしい。


矢追は修羅場を乗り越え放心状態だった。
萌えと恋は稲妻である。秋クールで衝撃的な出会いを果たした推しキャラ突発本発行、のみならずアンソロへの寄稿、公式コラボイベント参加、ピクシブにTwitter。
睡眠時間を削りに削り、極道入稿を終えてスカスカになった彼の脳は、すでに冬コミの計画を捏ね回している。
矢追のクリスマスは原稿上で一度終了してしまっていた。
「家に行っていいか」との電話にイエスと答えた瞬間に玄関が開き、チキンとケーキを抱えた備府が現れるまで、本当にきれいさっぱり忘れていたのだった。

ごめん、忘れてた、プレゼントも用意してない、ほんとごめん、なにそれおいしそう、ごめんね備府。
矢追は食事の支度を始めた備府の周りをうろつきながら謝罪を繰り返したが、
備府に気にした様子はなかった。備府は備府で、何か気がかりなことがあるらしい。

20時にはこたつの上がいっぱいになった。スパークリングワイン、フライパンで焼いたピザ、ビーフシチュー、バゲット、サラダ、チキン。
ケーキの前に小休止を挟む。
「明日プレゼント一緒に買いに行こう、何か欲しいものある?」
矢追は躍起になって言うが、備府の機嫌はすこぶる良かった。
「いや、いいって。クリスマスっぽいことしたかったんだ」
「リア充っぽく?」
「そう、それ」
「ぽくしなくてもリア充なのに」
「いいだろべつに。つーか…………こ、つ、付き合ってる相手がクリスマス忘れててもリア充になんの?」
ケーキを見る備府があんまり満足げなので、矢追は落ち着かない。

ケーキを二人でつつき、後片付けが終わると矢追を強烈な眠気が襲った。
「寝るなよ」
と備府が少し慌てたように言う。
「寝てないよ」
と返す矢追のまぶたは降りっぱなしだ。
備府の手が矢追の髪を撫で、耳をたどり、頬を摘まんでから離れていく。
その動きがいつかの自分をトレースしたものであることに気付き、矢追の意識は急速に浮上した。
「おきろよー、ねるなー」
繰り返し呼び掛けてくるものの、声は柔らかく、揺り動かすこともしない。
顔が見たくなりゆっくりと目を開けると、備府は照れたように横を向いた。
「起きたよ」
「おう」
「徹夜続きだったから」
「…………布団で寝ろよ」
「備府は?」
「うん」

これはまさか、と思いながら、手早く寝る支度をする。
ベッド脇に突っ立っている備府を両足で挟んでひきたおし、そのままの状態でたずねた。
「リア充っぽいこと、もうひとつあったね 」
からめられた足を解こうとしながら備府は笑った。
「無理すんな」
「せっかくの準備が無駄になっちゃう」
備府の動きが止まる。
「え?わかんの?」
矢追の動きも止まった。次の瞬間跳ね起きて備府にのし掛かる。
「うっわ、矢追お前、目の充血やばいよ」
やっぱり寝るか、と言った備府の顔が微かに緊張する。
「準備してたんだ」
「顔がやばいぞお前」
「ネットに小悪魔講座とかあるの?餌をひらつかせてスッと引くの?備府大人だあ、おっとなー」
「いや意味わかんない、あと手首痛い」
「備府、俺がんばるから。もう今までになくめくるめくる夜を」
「噛んでんじゃん」
「めくる。シャツを」
「しょーもなっ。普通でいいから」
早くしろ、と言われて矢追は決めた。
リア充の極み、6時間耐久試合に挑戦することを。


「備府ごめん、ちょっと交代して」
動きを止めると唸りながら備府が揺れだす。おぼつかない動きは恥じらいではなく疲れのせいらしい。いじらしいが物足りない。
こうでしょ、と腰を押し込むと備府の喉がぐうと鳴った。
「もう、無理、だって、」
「まだ、いける、でしょ」
なんちゃらの6時間をエンジョイしよう、と矢追は笑いかけるが、笑顔をつくれているかいまいち自信が持てなかった。
切れ切れの罵倒とすすり泣きは、細く長く明け方まで続いた。

終わり

みどり(後)

結って、ほどいて、結って、ほどいた。それから梳り、首に巻き、恐る恐る口に含む。好きにさせた。うなぎ屋だから許すというわけではない。沢村にとって、髪の毛はすでに自分の一部ではなくなっているのである。沢村が何か読むものを所望しようと思い始めた瞬間、うなぎ屋がもぞもぞし始めたので、沢村は靴ベラを取りに行かせた。紙幣を押しつけてくるのを無視する。

「感謝の気持ちだから。ね!感謝の気持ち」

「どれが一番良かったですか?」

「あっ?……いやそれはむずかしい質問だなあ」

うなぎ屋の顔が緩むのを眺める。

「そういえば、切った髪には興味ありませんか」

「いやあ、そりゃあ、言っちゃ悪いが俺にとっては死がいみたいなもんだ」

うなぎ屋は沢村の生え際をせつないまなざしで見つめている。

決定的に丸岡とうなぎ屋が異なる点。同じ超長髪愛好家であっても、丸岡にとって髪はアクセサリーであり、うなぎ屋にとって沢村は髪の苗床なのである。うなぎ屋相手であれば警察を呼ばれるようなことにはならなかったはずだ。髪の付属物として扱われ続けるほうが自分にはたやすいと沢村は考えた。しかしそれも今となってはどうでもいいことである。

沢村は店を出、一番土手に向かって無理やりあぜ道を進む。二番土手へしばらく戻ればまともな道もあるのだが、これだけ開けた場所にいるとそんな気も起きない。

青草が伸びる前のこの時期は歩きやすいが、修繕が済んでいない畔は崩れる危険性がある。わずかに傾いた太陽のもと、足元を気にしながらちまちまと足を運ぶ。その後ろ姿を、うなぎ屋は見送っている。頬に涙が一筋光った。そのあといそいそと店に入り、座敷に寝転ぶと座布団を抱きしめ目をつぶった。うなぎ屋はずいぶん長い事そうしていた。

一つ目のグラスが割れたのは年明けだった。

夫の実家に帰省するからと丸岡は顔を見せず、沢村は寝正月をどこまで引き延ばそうか考えていた。名字のダサさ以外はけちのつけようがないと絶賛する義実家で、丸岡は果たしてどんな妻でいるのだろうか。「まあ、私ほど幸せな妻はなかなかいないと思いますわ」などとのろけてみせたりするのだろうか。丸岡のこだわりは相当なもので、沢村の前では夫の話を決してしなかった。

9日の夕暮れ時にやってきて、彼女は沢村にB5サイズの紙を寄こした。

「読んで」
それだけ言うと、丸岡はトイレに籠る。

どうも吐いているようだ。
紙にはwebアドレスが殴り書きされている。
「これなに?」

「私が書いたの。これが理想だから、覚えておいて」

「理想って?」

「決まってるじゃない、別れ方の」

沢村はそろそろ怒鳴ったほうがいいのか迷った。

「別れたいの?」

「そうじゃなくて、別れるとしたらの話」

全く意味がわからない。

「何かあったの?」

あまり聞きたくなかった。

「子供ができたの」

「ん?」

「子供ができたの」

数秒前に戻ったかと思うほどよく似た調子で彼女は繰り返した。それはおめでとう、と沢村は言った。とりあえず言ったが、当然予測できたはずの事態に全く備えていなかった自分にショックを受けていた。

「おめでとうじゃないでしょう」

彼女はこぶしをテーブルに叩きつけた。花瓶が5センチほど動いた。

「相手は君じゃないのに」

相手が自分であったら、また違う意味でおめでとうとは言えない。きっと妊娠で、ホルモンバランスがあれで、あれなんだ。自分の内臓も揺れ動いているのがわかる。丸一日何も食べなかったあと、いきなりとんこつラーメンを食べた時もこんな心地がした。沢村は丸岡を準病人として扱うことにした。

「相手は旦那さんでしょう?」

精一杯のやわらかさで尋ねる。

丸岡は空の花瓶、掛け時計、テーブルの上の沢村の手の順で視線を動かした。

「きっとそうなるわ」

斎藤と美佳が金網で出来た罠を次々に引き上げている。箱型で、抱えるほどの大きさだ。

たまに亀がかかっていると声を上げ、斎藤が指差し、美佳が覗きこみ、首を横に振る。亀は逃がし、ザリガニはバケツにあける。蓋を取った斎藤が共食いしてると騒いでいる。

和田も最初は率先して参加していたのだが、だんだん目が回るようになってきた。亀はほとんどがメーちゃんと同じ種類で、しかしどれも不格好に尻尾が短い。一瞥すると、美佳は軍手をした手でつかんで水面に亀を放す。

亀はあわてて潜っていき、水面の揺れだけが残る。

少女たちを眺めながら、高野は独り言のように語り始めた。和田は早々に抜け出したことが気まずいようで、大人しくそれを聞いている。

「斎藤さんはよく笑いますね」

「そうですね。笑いのつぼが多いみたいで」

「長年女性は自由自在に笑うものだと思っていました」

「はあ」

「母も妻もそうでした。学生の頃を思い出してもそうです」

「好みってことですか」

「まあ、そういうことなんでしょう。そういう女性しか眼中になかった」

高野の目は美佳を追っている。

「みどりがいなくなってますます笑わなくなった……でも今日は楽しそうです」

「みどりというのは……」

「ああ、飼っていた亀の名前です。あの種類の亀は生まれてしばらく本当にきれいなひすい色なんですよ」

「へえ」

「到底見つかるとは思いませんが」

高野は立ち上がり、ズボンの尻をはたいた。「本来の目的はザリガニの駆除なので。美佳は見ればわかる、尻尾が特別長いからと言ってますがね、みどりが逃げたのは三年も前なんです」

あの子が笑うなら、私はなんだってかまわないんですけどね。

別れ際、美佳は大きく手を振った。

沢村に一つ癖が増えた。隣の部屋の音を聞くことだ。沢村には友人がいない。唯一近いと言えた人物丸岡が近いと言うには難しい状態になってから、沢村は壁に寄り添って音を聞いていた。トイレの流水音、テレビと会話する声、彼女と電話する声、何よりも望ましいのは和田が亀に話しかける声だった。和田は亀をベランダで飼っている。和田の声を聞くと心が安らいだ。ここに日常がある。

おなかに入っているのはエイリアンなの。どんどん大きくなるのよ。大きくなって私を裂いて出てくるでしょ。そうしたらあなたが育ててね。泣き疲れて眠る丸岡が腕の中でこぼすささやき。それは生乾きの洗濯物の臭いのようにどこまでもついて回る。えーちがうよ、あれはかぶで赤くなってんだよ。ほんとだって。和田の声を聞いた瞬間だけは、すっと疼痛が遠のく。本当は八幡君の子供なの。八幡君知ってる?あの話、検索してみた?私の昔のブログ見つけた?カメさーん、お元気―?エビ食べたかったらお手してみ。お、できるじゃーん。本当に好きなのは八幡君だけなの。検索した?あそこに全部書いてあるの。ごめんね。カメちゃん、メちゃん、メーちゃん。おっ、メーちゃんって響きいいねえ、いいこだねえ、メーちゃん。沢村めぐみは泣き始め、朝になっても泣いていた。

沢村は一番土手に上るとつばを吐いた。

数年前で更新が止まった女子大生のブログの内容なんてあっという間に忘れた。顔も体も声も、一か月もすれば忘れるはずだ。西日がまぶしくて沢村は顔をゆがめる。大橋ができあがったら一緒に歩いて渡ろうという約束だけはしばらく残るだろう。やはり約束なんかするもんじゃない。

髪を切る、と告げた後丸岡はもう沢村を見なかった。せっかく全部ちゃんとやってたのに。なんで自分で駄目にしたのかしら。しっかり決めてたのに。ちょっとくらいいいかな、なんて思ったことなかったのに。あのとき君が群青以外を選んだらよかったのに。君が女じゃなかったらよかったのに。
丸岡の決まりなんて沢村にはどうでもよかった。

走っていく丸岡が転ばなければいいと思ったが、そのあとのことは沢村の思考の外だ。いつのまにか玄関に和田がいて、久しぶりに恥ずかしいという感情を思い出した。もう終わりだ、全て終わりだ。

遠くで恋人同士の影が重なっている。

「あーたのしかった。これで心残りが一つ減った」

「心残りって何?あんまり変なこと言わないでよ、怖いじゃん」

「あのね、噂なんだけど、美佳ちゃん、いじめられてたらしいの」

和田は頭を掻いた。ふん、と口ごもる。

「三歳差で小さいときはよく遊んだのに、いつのまにか転校しちゃってて、私なんにもできなかったって思ってたから」

「優しいな」

「そう?単に自己満足だよ」

一番土手を二人は歩く。建設途中の大橋の、橋脚のみが向こう岸に続くのが、夕陽に照らされて神殿めいている。

「ずっと言ってなかったことがあるんだ」

斎藤は和田の手を取ると指をからめた。

「私ね、映画が好きなんじゃなくて爆発が好きなの」

「へえ、」

和田は斎藤の耳を見た。いつものように髪から少し突き出ている。そのふちが真っ赤になっている。

「別に、いいんじゃない」

「かえるを爆発させたこともあるの」

斎藤の頬は上気し、今までで最も魅力的に映った。

「それ、子供のころのことでしょ?」

斎藤は微笑んだままだ。

「それでね、勉強しに留学しようと思ってる」

「爆発の勉強?」

「そう、ゆくゆくは」

「ゆくゆく」

「今年の夏から、高校変えることにした」

「え?もう留学するってこと?もう三年なのに?」

「そうだよ。会うのがすごく難しくなる」

斎藤は顎を上げて挑戦的なサインを示した。文句ある?というように。

「もう全部決まってんだ」

「大体はね」

「どうしても行かなきゃだめなの?」

「……行ったら爆発やめられるかもと思って」

「なんで相談してくんないの」

「なんて言えばいいのかわかんなくて」

斎藤が握りしめてくるが、和田の掌には力がない。

「あのさ」

「なに?」

「あの、今もかえる、爆発させてるの?」

「今はね、」

斎藤はつま先立ちすると和田の耳元に口を寄せた。

今はね、もっと大きいやつ。

沢村は鋏を握って待っている。日が沈み、コウモリが飛び出した。灰がかった空に見えるシルエットは、頭がおかしいとしか思えないような軌道を描いている。あんなにがんばっても捕らえるのは羽虫だ。カロリーのつじつまをどうやって合わせているのだろう。仕切り板の向こうで、また和田が亀に話しかけている。『非常の際はここを破って隣戸に避難してください。』がだんだん見えなくなっていく。沢村は片足立ちになり、仕切り板に足裏をぴたりとつけた。『非常の際』はやってこない。髪をほどいた。ねじれた髪束が腰を打ち、広がり、それをぐしゃぐしゃとかき回す。もつれた毛束から手首を振って指を引き抜き、頭を振りまわすとそこらじゅうを撫でまわしながら髪は弧を描き、ぶら下げたままの角ハンガーに引っかかって止まった。ガション。罠にかかった新種の妖怪のように座り込み、仕切り板に左肩を付けて寄りかかると、コツコツという振動が伝わってくる。頭はかすかに右に引っ張られている。引っ張り返すと洗濯ばさみがちゃりちゃり鳴った。切ろう。和田が次にメーちゃんと言ったら切ろう。

どうも今日は亀を見過ぎたらしい。和田はベランダに膝をついてケースの中を覗いている。この亀が、朝の亀と同じであるかがどうにも疑わしい。果たしてこれはメーちゃんなのか?メーちゃんと呼んでいたあの亀なのか?豚レバーのパックを開けると、においに気付いて猛然とこちらに向かってくる。包丁を出すのがめんどうで、手近にあった鋏で刻んだ。餌を食べている姿もいつもと同じように見える。飲み込む時には必ず目をつむり、鼻の穴から余分な水をピュッと吐き出す。この亀か?鼻に指を伸ばすとその亀は首を大きく左右に振り、甲羅に引っ込めながら目の下を前足で掻いている。これは機嫌の悪いときの反応のはず。しかし個体の証明にはならない気がする。大きさはどうだろうか。メジャーを持ち出して測ろうとすると、亀は潜水し隠れ家に入ってしまった。まだ冷たい水に肘まで差し入れ、和田は亀を掴み出した。バタバタと暴れる甲羅を押さえつける。9センチ6ミリ。十日前と同じだ。手を離すと、ゴトゴトと甲羅の底を鳴らしながら亀は逃げていく。逃げていく亀の尻尾を見る。

この尻尾は今日見たどの亀よりも長い。三倍近くある。そう思う。摘まむと更に逃げていく。それを追いかけてくるりと甲羅に沿わせると、ほら、半周して首まで届くじゃないか。ベランダの端まで行って亀は止まった。メーちゃん。呼ぶと亀はこっちを見る。カメ、カメ吉、カミィ、メーちゃん。なんと呼ぼうがこちらを見ている。みどり、と呼んでもこちらを見ている。

しゃきりと鋏が鳴った。

みどり(前)

彼女が食べるようになったのは、目覚めてから二十日も後のことだ。ベランダに置かれたケースの中に、彼女は五カ月眠っていた。指先で摘まんだ特大粒の配合飼料を見せると、ぱっかりと口が開く。その下あごに乗るよう俵の形の粒を放り込むと、彼女は首をひっこめ、水と共に飲み込む。また首を伸ばす。口を開ける。内部は鶏ささみに似た色だと思う。あんまり長い事そう思っていると、彼女は餌を指ごと口に入れる。

彼女には決まった名前がない。初めの二週間、彼女はカメと呼ばれていた。それがカメ吉になり、カミィになり、ここ最近はメーちゃんと呼ばれている。どのような呼びかけに対しても彼女は鼻さきを和田に向ける。松の葉を煮詰めたような深いみどりの甲羅はつるりと滑らかで、てんでんばらばらに水をかくぽってりとした脚の先には羽軸根を思わせる爪が揃っている。尻尾はすんなりとして、甲羅に沿わせると半周して首まで届くほどだった。その首から目の周りまでひすい色の斑点が続き、濃灰の肌によく映えている。この地域ではよくみられる沼亀の一種だ。

しかし和田にとって彼女は特別な、世界一美しい亀であった。和田が以前住んでいた町にも亀はいた。それは砕いた岩を張り付けたような足で道路を横断する亀であり、生垣のハイビスカスをむしり食べてしまう亀であり、砂場にやってきては山を崩しにかかる亀であり、つまり陸亀であった。それも天然記念物に指定されたなんとかゾウガメというやつだ。我が物顔でそこらじゅうにいるカラカラに乾燥しきったその亀と町とが嫌で、ここに住むことを決めた。どうせすぐ帰ってくるに決まってる、地元の連中はなぜかそろってそう言ったが、和田の決意は梅雨時の布団裏に菌糸のコロニーを発見した日にも揺らがなかった。ここに住んでもう一年になる。

彼女は満足したらしく口を開かなくなった。それでも円らな目はこちらに向いている。ゆっくりと人指し指を近づけるとペトリと鼻をおしつけてくる。機嫌がよいようだ。

夜明けの空はよく晴れている。ギシャギシャとガラス戸が開く音がして、となりのベランダに人が出てくる。和田はとっさに部屋に戻ろうとしたが、そもそも自分がここにいるのは隣人のせいだと思いなおして知らぬふりを決めた。ずずっと鼻をすする音がして、そのあと溜息が聞こえた。

「あの……和田さん」

「……はい」

和田は仕方なく返事をした。隣人は舌が痺れているかのような、わずかにもたつく話し方をする。

「あの、沢村です。昨晩は、大変ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

いえ、とかまあ、などと口の中で転がしていると、隣人はまた少し息をついた。二人の間には仕切り板があり、『非常の際はここを破って隣戸に避難してください。』と書いてある。

「近々引っ越しますので、またご挨拶にうかがいます」

「はあ、大変そうですねえ」

となれば、静かな夜は戻ってくるのだ。気のない相槌を打ちながら安堵した。沢村の声は昨日の朝のゴミ捨て場での挨拶と変わらない。一晩泣き続けられる喉は特別強靭なのだろう。マラソンが得意そうだと和田は思った。

それじゃあ、と結局顔を合わせないまま沢村が去ると、和田はもう一度ケースに目を落とした。彼女は水底に沈んでいる。二度寝しようか。それとも賞味期限が昨日までのおにぎりを煮て食べようか。和田もベランダを去った。

水を吐くと海苔の滓が洗面台に広がる。血の味もする。昨夜は散々だった。和田は一人ではなく、やっとの思いで招いた斎藤と、映画の観賞会をしていた。

画面の中で主人公が潜入捜査をし始めたころ、隣からの話し声は怒鳴り声になった。斎藤が身じろぎもせずに映画を見続けているので、和田は斎藤の髪の隙間から出ている白い耳を見続けた。斎藤の耳は横に広がるようについているので、滝をわける岩のように髪の毛をかきわけている。主人公が敵のアジトを爆破するころには沢村の修羅場もクライマックスを迎え、悲鳴や何かの割れる音がしている。和田は貧乏ゆすりをしながら斎藤の耳がうっすら赤くなっているのを見つめる。爆破シーンが終わると斎藤は立ち上がり、このアパート和田くんとおとなりしか住んでないの?と聞いた。え、そうだよ。わかった、じゃあ帰るね。

ガシャーン、また何かが割れ、斎藤はほぼ仁王立ちで和田をねめつけている。画面では主人公が恋人と熱い抱擁を交わしている。あ、うん、そのほうがいいね。あの、あぶないし。和田は上目遣いだ。斎藤は鼻から息を吐くと、玄関に向かい、靴を履いた。ドアが素早く開き、素早く閉まったのであわてて追いかけると、斎藤はアパートの駐車場のカーブミラーの下で待っていて、右手を差し出した。和田はほっとするが、それに気付いた斎藤は再び鼻から息を吐いた。斎藤の家は歩いて十分ほどのところにある。古くからの土地持ちが多いこのあたりでも、斎藤の家は別格に大きかった。敷地には三軒も家が建っている。斎藤の兄弟の家族が住んでいるらしい。

気をつけてね。警察呼んだ方がいいんじゃない?ああ、うん。どうなったかあした聞かせてね。あした?うん、あした部活ないから。わかった。あした部活なかったんだよ!わかってんの?ご、ごめん。あさっては部活あるから。うん。じゃあね、あっそうだ、おじゃましました言うの忘れてた。

実は沢村の部屋にはすでに数回警察が来ている。和田ではなく、近隣住民の通報によるものだ。そのたびに次の日沢村一人が謝りに来る。今夜は今までで一番激しかった。帰るころには警官が来ているだろう。和田はわざとコンビニに寄った。目に痛い灯りのもとで青年漫画誌を立ち読みし、読み切らずに買って帰る。予想は外れたらしく、アパートは静かだった。和田は自分の部屋に入ろうとしたが、思いなおして沢村の部屋の前に立つ。玄関脇の小窓から灯りが漏れていた。インターホンを押そうとした瞬間勢いよくドアが開き、和田はしたたかに鼻を打った。あまり鼻が高くないことが災いしたのか、上唇も切った。沢村の相手を見たのは初めてだった。和田を押しのけ、飛び出していく。想像していたより若い女だった。

「それで?」

「それで、おとなりさんはぐっちゃぐちゃの部屋の中にいてさあ、泣いてるんだよ」

「うん」

「大丈夫ですか?って聞くじゃん?そしたら急にびしっとして『大丈夫です。本当にごめんなさい。少し放っておいてください。ごめんなさい』って言って立ち上がって後ろ向いたのよ」

斎藤は自分の爪を見ている。あんまりずっと見ているので、和田は自分が喋った言葉がテロップになって爪に映っているんじゃないかという気がし始める。

「あー」

「そしたら髪の毛がばっさああああってなって」

「髪の毛長いんだ」

「もうすごいの、ふくらはぎまであんの」

「えっ?立ってて?」

斎藤がやっとこっちを向いたので、和田は一層饒舌になった。

「そう!立ってて。最初かつらかなんかだと思ったんだよ。でもちゃんと生えてんの。普段おばさんぽい団子にしてるんだけど、どんだけ圧縮してたんだって感じ」

「ちょっとそれ怖くない?」

二人は歩きながら会話している。歩いているのは恋川公園だ。一級河川である大川にそそぐ小さな川で、三キロにわたって川沿いが整備されている。

「いや、びびってちょっと泣きそうになった。でもそのうち引っ越すらしい」

「なんか怖いよ……宗教の関係とか?」

「あーありえるかも」

恋川公園は大川の二番土手にぶつかって終わる。二番土手の向こうには広大な水田が広がり、そのまた向こうに一番土手がある。大川はその向こうだ。

「今日はさ、一番土手に行こうよ」

「和田って土手好きだよね」

「土手っていうか、ここらへん全体的に好きだよ」

斎藤は右目をこすった。和田はメーちゃんを思い出す。

丸岡と初めて出会ったとき、沢村は店員で丸岡は客だった。沢村の髪の毛は腰までの長さだった。地主が趣味で開いている小さな手芸店で働き始め、まだ慣れていないころだ。

「いらっしゃいませ」

ドアベルが鳴り終わる。初めて見る客だ。つばの広い帽子をかぶっている。沢村は奥歯に力を入れた。沢村にはいくつも癖があるが、これは自覚しているうちの一つ、心の準備をするときの癖である。

客はまっすぐリボンの棚に向かった。そろそろマスキングテープの新作を出さなければ。そう思っていると、

「ね、君」

と声がかかった。客は一人だ。

「パールとリボンでアクセサリー、作ろうとしてるの。いっしょに選んでくれない?」

華やかな見た目で予想したよりも低くやわらかな声だった。来たぞ、と沢村は身構える。

ときたま越えなければならない、常連奥様による新人チェックだ。

「へえ」

沢村の口から出た返事は、二人を見つめあわせる効果があった。

「失礼しました、あの、はいって言おうとしたんですけど」

ぱちくりというのがぴったりな様子でまばたきした後、客はにやりと笑った。

「どこの江戸商人かと思っちゃった」

言い終わるとすでに穏やかな微笑にすり変わっている。

「こっちに来て。どれがいいかしら」

「やはり光沢があって色の深いものが合わせやすいかと思います。こちらなどいかがですか?」

「そうね、でも私紫は似合わないのよ。君は何色が好き?」

「私は群青が好きですね」

客はカラカラと群青のリボンを引き出した。綺麗に磨かれた爪はずいぶん短く切ってある。群青のラインはどんどん伸びていく。とうとう腕をいっぱいに広げる。

「ね、足首見せて」

「は、」

「足首よ」

客は片膝をついてかがみ、沢村のスラックスの裾をまくりあげるとリボンを足首に巻き付けた。

「予想が外れた」

ぶっきらぼうに言って、動けないでいる沢村を見上げる。

「へ、」

「君鈍くさいから、もっと太いかなって」

丸岡はアキレス腱のくぼみを親指で押した。

「馴れ初めそんなんかあ。それじゃあ、さわちゃんは俺が金持ちになっても愛人にはなってくれねえなあ」

「どういう意味ですか?」

耳下から髪を三つ編みにしながら沢村は聞いた。柘植の櫛の彫を指先でたどりながら、うなぎ屋は陶然と真っ黒な流れを追っている。

「この髪も奥さんに言われて伸ばしたんだろう」

「そうですよ。君にはロングヘアの才能があるとか言って」

「才能、そうそうそいつだ、とにかく生まれついての資質っていうのはどうしようもないんだよ」

伸びる速さ、髪の寿命、量、強さ。全部そろわんとこうはならないからね。先細りがほとんどない上にここまでのストレート。二十年前の俺に教えてやりたいね、お前が真面目にがんばれば超長髪のお姫様が現れるぞって。うなぎ屋は編みあがった右のおさげを手に取るとうなりだした。

「触りたい触りたいと思ってはいたけど、複雑な気分だねえ」

「もともとこだわりがあって伸ばしていたわけではないので……手入れも自分ではあんまりしなかったな」

「おうそうそう、その手入れの話をしてくれや。上乗せするからさ」

臨時休業のうなぎ屋の座敷に二人はいる。引越しの挨拶の順番を後回しにしたのも、櫛を持ってきたのもその気があったと言えなくもない。しかし店を休みにするとは予想外だった。

丸岡と付き合い始め、最初に連れてこられたのがこのうなぎ屋だ。一番土手と二番土手の間、水田のただ中にぽつんとある。江戸時代から続く老舗らしい。このあたりはもうとっくにうなぎはとれなくなっているので、継ぎ足し継ぎ足しの秘伝のたれと、どこか遠くのおいしいうなぎを使っている。

「あの人は、洗うのが一番好きでしたね」

まず荒歯の櫛で毛先から梳いていく。髪を傷めないように、じれったくなるほどゆっくりと。櫛を細歯のものに持ち換える。頭皮をたどり、うなじをかき上げ、流れを揃えていく。

「それから?」

うなぎ屋は沢村の真横に座布団を枕にして寝転がった。身じろぐたびに揺れる、ふりそそぐさまを飽きもせず注視している。上映中のプラネタリウムで探しても、こんなに輝いた瞳はそうそう見つからないだろう。触ってもいいですよ、と促すともったいないとかなんとかぶつぶつ言っている。

それから、椿油を塗りたくる。髪がずしりと重みを増して、髪は寄り集まって体積が減る。それを薄く広げ、両手で挟んで撫でおろしていく。ふと手が止まる。指でまさぐり、摘まみ出したその一本は結び目が出来ている。

「はー、こんだけ長いと一本でも絡まるってことかい」

手の動きも水の流れも常に一定方向に。洗ってすすいで、それから乾燥。

「時間はどれくらいかかんの」

「フルコースの時は二時間くらいですかね」

「それがなくなるのか」

「楽しみで仕方がないです」

沢村はリクエストに応え、ポニーテールにとりかかる。高い位置で結び目を維持するのは至難の技だ。

二番土手を登ると、和田は歓声を上げ、数回飛び上がった。苗植え前の水田に水が張られている。藁色の枠の鏡を敷き詰めたようだ。

「すごいよ、ほら」

「そうだね」

「ここは水がいっぱいでいいよなあ。俺が前住んでたところは取水制限があってさあ」

「未だに朝シャンすると感動するもん、でしょ?」

「ばれたか」

自転車が迫っていることに気付き、和田は斎藤に手を伸ばした。斎藤は体をひねる。

「何?」

「自転車来てる」

「ああ」

斎藤は和田の手を取らない。

「いけ!サンダービーム!」

「そうはいくか!ハイパーバリア!」

もつれ合うようにして、少年を乗せた自転車が二台駆け抜けた。

「一番土手に行く前に、私の通ってた小学校見に行かない?」

斎藤は和田の喉を見ながら言った。斎藤から行き先の提案とは珍しい。

「あっち」

指差す先に、少年たちの背がどんどん小さくなっていく。

「あっちね」

和田は斎藤の指を気にしている。力を入れて指差すとき、斎藤の人差し指は第一関節だけかすかに曲がる。

土手は半分が枯れ草で覆われていて、生えはじめのクローバーがまだらに侵食している最中だ。

「クローバーの花が咲くと、小学生の頃はみんなで冠作ったなあ」

「小学生かあ」

「土手を滑り降りて遊ぶんだけど、冬の間は枯れ草だから段ボールでもビニールでもよく滑るのね。でもクローバーが生えてくるとプラスチックのソリじゃなきゃだめなの」

「ほう」

「それも過ぎて、いろんな草がぼうぼうになると、またすごくすべりやすくなる」

「ほう」

「聞いてる?」

「もちろん、もちろん」

和田は、あのうなぎ屋は高いのだろうか。あとでこっそり覗いてみたい、そう考えている。うなぎ屋から誰か出てくるのが見える。一番土手に向かっているようだ。

何かにぶつかった。斎藤が立ち止っている。「あれ、高野のおじちゃんだ」

前からやってくるのは黄土色のつなぎを着た初老の男と十代中ごろの女だった。

「おや、斎藤さんのところの。お久しぶりです。お友達も、こんにちは」

頭を先に下げられてしまい、和田はあわてて会釈した。

「おじちゃん、何持ってるの?」

押している二台付き三輪車には大きなポリバケツが乗っている。

「見てごらん」

気安い様子で言葉を交わす二人を、少女と和田は手持ちぶさたで待っている。

げ。

と斎藤が和田に目配せをした。まわり込んでバケツを覗くと、赤いザリガニがわんさと入っている。

「実は今いなくなった亀を探していてね。昨日から罠を沈めているんだが、ごらんのとおり」

「亀ですか」

和田が思わず聞き返すと、彼は眉をあげた。

「そう。ほら美佳、ごあいさつしなさい」

「はじめまして、孫の美佳です」

「この子の亀が逃げ出してしまってね。小学校の亀池から、用水路から、巻上神社の池まで回ってるんだ。でもなかなかかからなくてね。ザリガニは鯉の餌にでもしようかな」

「美佳ちゃんと私は、遊んだことある……よね」

斎藤の物言いに遠慮を感じ、和田は訝しく思った。

「はい」

美佳はうなずく。

斎藤もほっとしたようにうなずき返す。

さきほどから、美佳の表情は全く動かない。

「せっかくだから、手伝おっか」

斎藤が言い出したので、和田も同意した。

「それで、今飼っている亀、どこで拾ったか覚えてないんです。酔っぱらって帰ってきて、そうだ、電話しよう、と思って出したら亀だったんです。」

和田の鉄板ネタなのだが、今日はあまりうけなかった。

「亀は買う人よりも拾う人の方が多そう」

斎藤の言葉に、和田は首をかしげたが、高野と美佳はうなずいた。

「そうなんですか?これはもう運命的だと思ってたんだけどなあ」

「運命的であることにはかわりないですよ」

高野はいたずらっぽく言った。

ポリバケツの中でザリガニがうごめいている音がする。

熱くなく軽くなく厚い

軒先の牡丹はしぼんで見る影もなかった。
朝から降っていた雨は昼から吹き出した風に巻き込まれるようにして全てを湿らせていく。
靴どころかズボンまでぐっしょりとぬれてまとわりつく脚をのったりと動かし、矢追は帰宅した。
「ただいま」
いつもの癖で呟くと、予想外に返事があった。
「おかえり」
見ると両手に自分のスニーカーをぶら下げた備府が突っ立っている。
「帰ってないの?なんで靴もってんの」
今日も学校に行かなかったのだろうか。
昨日泊まりに来たままの格好で、備府は矢追が靴を脱ぎ、続けてズボンを脱ぐのをぼんやり見ている。
「隠れようかと思ったんだけどめんどくなった。つーかなんでズボン脱いでんだお前」
「雨すごくてさー」
お風呂入っちゃおー
矢追は洗濯機にズボンを放り込むと湯舟に湯を張り始めた。
「リッチだな」
備府が後ろからのぞきこむ。
「たまにはねー。シャワーだけだと入った気がしない」
部屋に戻ると黒い円盤がテーブルの上にあった。
「何これ」
「知らん」
「なに?」
「ホ、ホットケーキ」
苦かった、と備府は言った。それもどこかぼんやりとしていて矢追は不安になる。
「体調悪いの?」
「いや・・・腹減ったと思ったんだけどそうでもなかった」
寒くもないし、頭痛くもないし
腑に落ちない様子で備府は首を傾げる。
「とりあえず靴置いてきなよ。まだ帰らないでしょ?僕風呂入ってくるから」
「うん」

「あのさー」
「なにー?」
「後で弁償すっから!」
「何がー?」
「ホットケーキ!」
「えー?」
「だからホットケーキ!」
矢追はシャワーの栓をひねって止めると風呂場のドアを開けた。
「別にいいのに」
なんで今このタイミングなのか疑問だがそこはあえて訊ねない。
「あ、うん」
「一緒に入る?」
「なんでだよ!やだよ」
「やなの?」
「や、やだよ当たり前だろ、いいからもう入れよ」
備府は矢追を押し込もうと出した手を触れる前に引っ込めると逃げるように後退りした。

矢追は風呂から上がると円盤の焦げを切り落とし、ハムとチーズとレタスを挟んで二人で食べた。
備府は珍しく常に手の届く範囲に居続け、終いには読書している矢追の胡座をかいた腿に頭を乗せて寝た。
矢追は内心いつ隕石が落ちてくるのか戦々恐々としたが顔には出さなかった。
お腹減ってるんじゃなくて寒いんでもなくてただ寂しいんじゃないのか、ということも口には出さなかった。










多分会ってからそんなたってない

彼の庭(1)

中央公園には風車がある。どこか遠い国の粉挽きを模した風力発電機だ。
彼はしばらく周りを歩き回り、立ち止まると今度はしゃがみこんだ。
懐から小さな端末を取り出すと、目の前にかざす。ファインダーの先に風車が回っている。その後ろの林に、ちらりと光があった。
その光が大きくなり、風車に激突して破壊する場面を想像する。
風車が壊れたところを見たことはないが、描かなければならない。
堂仁はようやくシャッターを切った。
ドン・キホーテを忘れたいと堂仁は思う。それは矢追を忘れたいと思うことと等しい。
自分に根を張った存在を、引きはがして身軽になってしまいたい。
はがしたら自分の心はどこへ行くのだろう。

「これはなんですか」
台の端にぽつんと置かれたビニールポットに注視され、年配の夫人は面映ゆそうに破顔した。
「アボカドなのよ。……あのねえ、わたし今年小学校に上がった孫がいるの」
唐突に始まった孫の話に、男は眉一つ動かさず相槌を打った。
「その子が食べた後のアボカドの種を自分で一年間育てたものなんだけどね、今朝『おばあちゃん、これ売ってお金持ちになってね』ってさ」
大玉の菊ばかりが並ぶ台の向こうに、咲き誇る花に負けない笑顔がある。
彼は飼い犬を伴っていつもの散歩コースにやってきていた。
いつもとは違う辺りの様子に大喜びし、背後で行き交う人に愛想を振りまいている愛犬の尻尾が男の膝裏をはたき続けている。
「いくらですか?」
彼はわずかに頬を緩め、財布を取り出した。
中央公園ではフリーマーケットが開かれている。

「わたしのではない彼は左利き」
彼女は思い切りボールを投げる。見失ってもいいのだ。
「幾何学」
「頸城」
「帰宅」
「茎」
「気楽」
「空気」
「客」
「籤引」
「金額」
「空即是色」
「」
彼女はまたボールを見つける。今度は目をつむって投げる。
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