結って、ほどいて、結って、ほどいた。それから梳り、首に巻き、恐る恐る口に含む。好きにさせた。うなぎ屋だから許すというわけではない。沢村にとって、髪の毛はすでに自分の一部ではなくなっているのである。沢村が何か読むものを所望しようと思い始めた瞬間、うなぎ屋がもぞもぞし始めたので、沢村は靴ベラを取りに行かせた。紙幣を押しつけてくるのを無視する。

「感謝の気持ちだから。ね!感謝の気持ち」

「どれが一番良かったですか?」

「あっ?……いやそれはむずかしい質問だなあ」

うなぎ屋の顔が緩むのを眺める。

「そういえば、切った髪には興味ありませんか」

「いやあ、そりゃあ、言っちゃ悪いが俺にとっては死がいみたいなもんだ」

うなぎ屋は沢村の生え際をせつないまなざしで見つめている。

決定的に丸岡とうなぎ屋が異なる点。同じ超長髪愛好家であっても、丸岡にとって髪はアクセサリーであり、うなぎ屋にとって沢村は髪の苗床なのである。うなぎ屋相手であれば警察を呼ばれるようなことにはならなかったはずだ。髪の付属物として扱われ続けるほうが自分にはたやすいと沢村は考えた。しかしそれも今となってはどうでもいいことである。

沢村は店を出、一番土手に向かって無理やりあぜ道を進む。二番土手へしばらく戻ればまともな道もあるのだが、これだけ開けた場所にいるとそんな気も起きない。

青草が伸びる前のこの時期は歩きやすいが、修繕が済んでいない畔は崩れる危険性がある。わずかに傾いた太陽のもと、足元を気にしながらちまちまと足を運ぶ。その後ろ姿を、うなぎ屋は見送っている。頬に涙が一筋光った。そのあといそいそと店に入り、座敷に寝転ぶと座布団を抱きしめ目をつぶった。うなぎ屋はずいぶん長い事そうしていた。

一つ目のグラスが割れたのは年明けだった。

夫の実家に帰省するからと丸岡は顔を見せず、沢村は寝正月をどこまで引き延ばそうか考えていた。名字のダサさ以外はけちのつけようがないと絶賛する義実家で、丸岡は果たしてどんな妻でいるのだろうか。「まあ、私ほど幸せな妻はなかなかいないと思いますわ」などとのろけてみせたりするのだろうか。丸岡のこだわりは相当なもので、沢村の前では夫の話を決してしなかった。

9日の夕暮れ時にやってきて、彼女は沢村にB5サイズの紙を寄こした。

「読んで」
それだけ言うと、丸岡はトイレに籠る。

どうも吐いているようだ。
紙にはwebアドレスが殴り書きされている。
「これなに?」

「私が書いたの。これが理想だから、覚えておいて」

「理想って?」

「決まってるじゃない、別れ方の」

沢村はそろそろ怒鳴ったほうがいいのか迷った。

「別れたいの?」

「そうじゃなくて、別れるとしたらの話」

全く意味がわからない。

「何かあったの?」

あまり聞きたくなかった。

「子供ができたの」

「ん?」

「子供ができたの」

数秒前に戻ったかと思うほどよく似た調子で彼女は繰り返した。それはおめでとう、と沢村は言った。とりあえず言ったが、当然予測できたはずの事態に全く備えていなかった自分にショックを受けていた。

「おめでとうじゃないでしょう」

彼女はこぶしをテーブルに叩きつけた。花瓶が5センチほど動いた。

「相手は君じゃないのに」

相手が自分であったら、また違う意味でおめでとうとは言えない。きっと妊娠で、ホルモンバランスがあれで、あれなんだ。自分の内臓も揺れ動いているのがわかる。丸一日何も食べなかったあと、いきなりとんこつラーメンを食べた時もこんな心地がした。沢村は丸岡を準病人として扱うことにした。

「相手は旦那さんでしょう?」

精一杯のやわらかさで尋ねる。

丸岡は空の花瓶、掛け時計、テーブルの上の沢村の手の順で視線を動かした。

「きっとそうなるわ」

斎藤と美佳が金網で出来た罠を次々に引き上げている。箱型で、抱えるほどの大きさだ。

たまに亀がかかっていると声を上げ、斎藤が指差し、美佳が覗きこみ、首を横に振る。亀は逃がし、ザリガニはバケツにあける。蓋を取った斎藤が共食いしてると騒いでいる。

和田も最初は率先して参加していたのだが、だんだん目が回るようになってきた。亀はほとんどがメーちゃんと同じ種類で、しかしどれも不格好に尻尾が短い。一瞥すると、美佳は軍手をした手でつかんで水面に亀を放す。

亀はあわてて潜っていき、水面の揺れだけが残る。

少女たちを眺めながら、高野は独り言のように語り始めた。和田は早々に抜け出したことが気まずいようで、大人しくそれを聞いている。

「斎藤さんはよく笑いますね」

「そうですね。笑いのつぼが多いみたいで」

「長年女性は自由自在に笑うものだと思っていました」

「はあ」

「母も妻もそうでした。学生の頃を思い出してもそうです」

「好みってことですか」

「まあ、そういうことなんでしょう。そういう女性しか眼中になかった」

高野の目は美佳を追っている。

「みどりがいなくなってますます笑わなくなった……でも今日は楽しそうです」

「みどりというのは……」

「ああ、飼っていた亀の名前です。あの種類の亀は生まれてしばらく本当にきれいなひすい色なんですよ」

「へえ」

「到底見つかるとは思いませんが」

高野は立ち上がり、ズボンの尻をはたいた。「本来の目的はザリガニの駆除なので。美佳は見ればわかる、尻尾が特別長いからと言ってますがね、みどりが逃げたのは三年も前なんです」

あの子が笑うなら、私はなんだってかまわないんですけどね。

別れ際、美佳は大きく手を振った。

沢村に一つ癖が増えた。隣の部屋の音を聞くことだ。沢村には友人がいない。唯一近いと言えた人物丸岡が近いと言うには難しい状態になってから、沢村は壁に寄り添って音を聞いていた。トイレの流水音、テレビと会話する声、彼女と電話する声、何よりも望ましいのは和田が亀に話しかける声だった。和田は亀をベランダで飼っている。和田の声を聞くと心が安らいだ。ここに日常がある。

おなかに入っているのはエイリアンなの。どんどん大きくなるのよ。大きくなって私を裂いて出てくるでしょ。そうしたらあなたが育ててね。泣き疲れて眠る丸岡が腕の中でこぼすささやき。それは生乾きの洗濯物の臭いのようにどこまでもついて回る。えーちがうよ、あれはかぶで赤くなってんだよ。ほんとだって。和田の声を聞いた瞬間だけは、すっと疼痛が遠のく。本当は八幡君の子供なの。八幡君知ってる?あの話、検索してみた?私の昔のブログ見つけた?カメさーん、お元気―?エビ食べたかったらお手してみ。お、できるじゃーん。本当に好きなのは八幡君だけなの。検索した?あそこに全部書いてあるの。ごめんね。カメちゃん、メちゃん、メーちゃん。おっ、メーちゃんって響きいいねえ、いいこだねえ、メーちゃん。沢村めぐみは泣き始め、朝になっても泣いていた。

沢村は一番土手に上るとつばを吐いた。

数年前で更新が止まった女子大生のブログの内容なんてあっという間に忘れた。顔も体も声も、一か月もすれば忘れるはずだ。西日がまぶしくて沢村は顔をゆがめる。大橋ができあがったら一緒に歩いて渡ろうという約束だけはしばらく残るだろう。やはり約束なんかするもんじゃない。

髪を切る、と告げた後丸岡はもう沢村を見なかった。せっかく全部ちゃんとやってたのに。なんで自分で駄目にしたのかしら。しっかり決めてたのに。ちょっとくらいいいかな、なんて思ったことなかったのに。あのとき君が群青以外を選んだらよかったのに。君が女じゃなかったらよかったのに。
丸岡の決まりなんて沢村にはどうでもよかった。

走っていく丸岡が転ばなければいいと思ったが、そのあとのことは沢村の思考の外だ。いつのまにか玄関に和田がいて、久しぶりに恥ずかしいという感情を思い出した。もう終わりだ、全て終わりだ。

遠くで恋人同士の影が重なっている。

「あーたのしかった。これで心残りが一つ減った」

「心残りって何?あんまり変なこと言わないでよ、怖いじゃん」

「あのね、噂なんだけど、美佳ちゃん、いじめられてたらしいの」

和田は頭を掻いた。ふん、と口ごもる。

「三歳差で小さいときはよく遊んだのに、いつのまにか転校しちゃってて、私なんにもできなかったって思ってたから」

「優しいな」

「そう?単に自己満足だよ」

一番土手を二人は歩く。建設途中の大橋の、橋脚のみが向こう岸に続くのが、夕陽に照らされて神殿めいている。

「ずっと言ってなかったことがあるんだ」

斎藤は和田の手を取ると指をからめた。

「私ね、映画が好きなんじゃなくて爆発が好きなの」

「へえ、」

和田は斎藤の耳を見た。いつものように髪から少し突き出ている。そのふちが真っ赤になっている。

「別に、いいんじゃない」

「かえるを爆発させたこともあるの」

斎藤の頬は上気し、今までで最も魅力的に映った。

「それ、子供のころのことでしょ?」

斎藤は微笑んだままだ。

「それでね、勉強しに留学しようと思ってる」

「爆発の勉強?」

「そう、ゆくゆくは」

「ゆくゆく」

「今年の夏から、高校変えることにした」

「え?もう留学するってこと?もう三年なのに?」

「そうだよ。会うのがすごく難しくなる」

斎藤は顎を上げて挑戦的なサインを示した。文句ある?というように。

「もう全部決まってんだ」

「大体はね」

「どうしても行かなきゃだめなの?」

「……行ったら爆発やめられるかもと思って」

「なんで相談してくんないの」

「なんて言えばいいのかわかんなくて」

斎藤が握りしめてくるが、和田の掌には力がない。

「あのさ」

「なに?」

「あの、今もかえる、爆発させてるの?」

「今はね、」

斎藤はつま先立ちすると和田の耳元に口を寄せた。

今はね、もっと大きいやつ。

沢村は鋏を握って待っている。日が沈み、コウモリが飛び出した。灰がかった空に見えるシルエットは、頭がおかしいとしか思えないような軌道を描いている。あんなにがんばっても捕らえるのは羽虫だ。カロリーのつじつまをどうやって合わせているのだろう。仕切り板の向こうで、また和田が亀に話しかけている。『非常の際はここを破って隣戸に避難してください。』がだんだん見えなくなっていく。沢村は片足立ちになり、仕切り板に足裏をぴたりとつけた。『非常の際』はやってこない。髪をほどいた。ねじれた髪束が腰を打ち、広がり、それをぐしゃぐしゃとかき回す。もつれた毛束から手首を振って指を引き抜き、頭を振りまわすとそこらじゅうを撫でまわしながら髪は弧を描き、ぶら下げたままの角ハンガーに引っかかって止まった。ガション。罠にかかった新種の妖怪のように座り込み、仕切り板に左肩を付けて寄りかかると、コツコツという振動が伝わってくる。頭はかすかに右に引っ張られている。引っ張り返すと洗濯ばさみがちゃりちゃり鳴った。切ろう。和田が次にメーちゃんと言ったら切ろう。

どうも今日は亀を見過ぎたらしい。和田はベランダに膝をついてケースの中を覗いている。この亀が、朝の亀と同じであるかがどうにも疑わしい。果たしてこれはメーちゃんなのか?メーちゃんと呼んでいたあの亀なのか?豚レバーのパックを開けると、においに気付いて猛然とこちらに向かってくる。包丁を出すのがめんどうで、手近にあった鋏で刻んだ。餌を食べている姿もいつもと同じように見える。飲み込む時には必ず目をつむり、鼻の穴から余分な水をピュッと吐き出す。この亀か?鼻に指を伸ばすとその亀は首を大きく左右に振り、甲羅に引っ込めながら目の下を前足で掻いている。これは機嫌の悪いときの反応のはず。しかし個体の証明にはならない気がする。大きさはどうだろうか。メジャーを持ち出して測ろうとすると、亀は潜水し隠れ家に入ってしまった。まだ冷たい水に肘まで差し入れ、和田は亀を掴み出した。バタバタと暴れる甲羅を押さえつける。9センチ6ミリ。十日前と同じだ。手を離すと、ゴトゴトと甲羅の底を鳴らしながら亀は逃げていく。逃げていく亀の尻尾を見る。

この尻尾は今日見たどの亀よりも長い。三倍近くある。そう思う。摘まむと更に逃げていく。それを追いかけてくるりと甲羅に沿わせると、ほら、半周して首まで届くじゃないか。ベランダの端まで行って亀は止まった。メーちゃん。呼ぶと亀はこっちを見る。カメ、カメ吉、カミィ、メーちゃん。なんと呼ぼうがこちらを見ている。みどり、と呼んでもこちらを見ている。

しゃきりと鋏が鳴った。