スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

向日葵(前)(連載)

来野は文庫本を読みふけっている。備府は来野をスケッチしている。備府を矢追が描いている。堂仁は矢追を見つめながら鉛筆を走らせている。
奇妙な輪が部室にはあった。矢追が備府を描きたいと言ったのが発端だ。備府が「ただモデルになっているのは耐えられない」と言い、読書にいそしんでいた来野に申し入れて素描を始めた。直後にやってきた堂仁が矢追を描き始めて30分になる。
来野はちらりと備府に目をやった。矢追に見つめられてもぞもぞしていたのが嘘のように静かな目をしている。
一心に来野の質量、構造、質感をはかっている。その目はいっそ冷たいように来野には感じられた。
誰も話さない。紙を鉛筆が滑る音が積み重なっていく。

「今日は何の日か知ってる?」
矢追が口を開いた。
「「……知らん」」
備府と堂仁の声が重なる。備府はしまったと言いたげに頬を引きつらせ、堂仁は眉間に皺を寄せた。
「僕の知り合いに記念日マニアがいるんだけどね」
来野は「記念日」という単語に反応して再び顔を上げた。
「今日手帳を見せてもらったんだ。凄かった」
書き込みがびっしりで黒かった、と矢追は淡々と言った。
「しかも手帳は一冊じゃなくて恋人専用のがあってさ、そっちはこれから書き込むんだ、ってにこにこしてた」
日記みたいなものなのかな、と誰にともなく呟く。
「僕あんまりそういう感覚ないんだけど、みんなどう?『この日は特別な日』ってある?誕生日とか以外でさ」

矢追の知り合いの以前の彼女を知っている、と来野は思ったが口には出さなかった。
『初めてデートしたときに履いていた靴を思い出せなかったの。確かに私は忘れたわよ。だからってどうしてあの人を嫌いになったなんて思えるのかしらね』
疲れたと笑う友人を思い出す。

「俺もいまいちわからんな。出来事自体の印象はあってもなかなか日付までは覚えてないわ」
「オレもー」
「堂仁は?」
堂仁は手を止めると真っ直ぐ矢追を見た。
「あるな、一日だけ」

「堂仁は一緒に帰らねえの?」
矢追と備府を見送ったあと、来野は二冊目の文庫本を開いた。
「他にやることがある」
資料を広げながら堂仁は言う。彼にとって矢追のスケッチは原稿よりも優先されるのだろうかと来野は思った。
「なー堂仁、一目惚れってしたことある?」
「なんだ急に」
「さっき読み終わったやつがそういうやつだった」
「……ない」
「何その間」
「一目惚れしたやつは不幸だな」
「なんでだよ」
「大体惚れた瞬間がわかるってこと自体不幸」
「だからなんで」
「自分がとんでもなく幸せなことに気付くから」
「幸せなことに気付くのが不幸?意味不明」
「もう二度とこの幸せな瞬間はやってこないってことがその瞬間にわかるんだよ」
堂仁は目を細めて矢追のスケッチを眺めた。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2010年08月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31