「それ……」
五芒星を認識した途端、自分の手が伸びてはたき落とすのを矢追は他人のように見ていた。
「うわっ」
派手な音を立てて金属製の箱が地面に叩きつけられる。
「備府」
「何、どうした?」
拾おうと屈み込むのを制し、混乱した様子の備府を縋るように見た。
「備府、大丈夫?」
肩に手を置くと大袈裟なほど備府は震える。
「……いや、大丈夫も何も……むしろお前が大丈夫かよ」
目の中には猜疑と微かな恐怖が見える。いつもの備府だ。矢追は息をついた。
「……お前最近変だぞ」
「……うん、変なんだ」
久しぶりにまっすぐに見た瞳を更に覗いた。自分が映っている。自分だけが。
「矢追」
「何」
「近い」
「うん」
「いや、うんじゃなくて」
「うん」
吸い込まれるように備府に身を寄せる。顔をしかめつつも逃げようとはしない。
「備府」
「……なんだよ」
許されるような錯覚を抱く。
風が吹いた。
ふいに備府が身をもがき、矢追を突き放す。
「あ、」
「……お前、煙草吸うのか」
まるで株価を尋ねるような調子で備府は問い掛けた。
「……たまに」
備府の後ろを清掃ロボットが通る。
この世界に自分と備府は二人きりではなかった。異物を持ち込んだのは自分だ。
「知らなかった」
備府はぶっきらぼうに言った。
「俺、知らなかったわ」
念を押すようにもう一度言い、備府はうつむいた。
矢追の後ろでカタリ、と音がした。
「矢追、後ろ、本が、」
目を見開いた備府が指差す。
振り返ると清掃ロボットが通り過ぎたところだった。
本はない。
本が。
二人は弾かれたように清掃ロボットに駆け寄った。
一抱えほどあるオフホワイトのプリンのようなそれは、学内でもよく見掛ける政府指定の清掃ロボットだ。
ゴミを下から吸い上げて滑るように歩き回る。
「あんな大きいの普通拾わないよね?」
進路をふさぐとロボットは速やかに方向転換する。
停止スイッチを探してまた前に回り込む。ロボットが避ける。右往左往しながらもスイッチを押し、製造番号を確認し携帯で管理センターへ電話をかけた。
繋がらない。
「電話繋がらない……緊急停止スイッチ押したからそのうちメンテナンスメンバーが来るよね?」
「多分な」
「ごめん、僕のせいだ」
「お前最近意味わかんねえよ」
目が合うと備府は微かに笑った。
まだ笑いかけてくれるのか。
こんなに簡単に決心は揺らぐ。いっそのこと言ってしまおうか。冗談めかして本音を漏らしてしまおうか。
秋風の中二人で人を待っている。
矢追を怖いと感じたのは初めてだった。
備府は自分がどれほど小心者か自覚している。だが、矢追にだけ気兼ねなくいられる異常さについては自覚していなかった。
今ようやく気付いた。自分はきっとあり得ないほどの気遣いを矢追から受けていたのだ。矢追はいつも自分を見ていてくれた。声を荒げられたことすらない。ひたすら穏やかに、付かず離れず彼はいた。そういう性分なのだと思い込んでいた。
「備府、寒くない?」
「……平気」
心地よく享受するばかりで、何もわかっていなかった。愛想を尽かされるわけだ。
「そりゃあそうなるよな」
「ん?何か言った?」
「……矢追、お前いいやつだよな。ごめんな」
言葉がこぼれるというのはこういうことだろう。そのスムーズさに備府は自分で驚いた。
「な、何で謝るの?急にどした?」
矢追が慌てるのが面白い。きっと嫌われてはいない。矢追は自分に触れたじゃないか。遠くなっただけだ。それだけだ、と自分に言い聞かせる。
「いや、何となく」
さっき矢追の目を見たとき、泣き出すのではないかと一瞬思った。一緒に泣けたらいいのにと思った。
堂仁の香りがした。
本当は寒かった。