スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

水族館(終)(連載)

巨大な黒い影は何度も何度も透明な壁に衝突し続ける。
明らかに目的を持った動きだった。
それもトンネルに向かっているというよりは、矢追たちに向かっていると言ったほうが辻褄の合う仕草だ。
本能的な恐怖が喉元にせりあがる。叫びそうになる自分を必死になだめ、矢追は携帯電話を取り出した。救急車を呼ぼうと思ったのだ。
「なんでだよっ……」
とっさに投げ付けようとして思いとどまる。電池が切れていてディスプレイは真っ暗だ。
「備府、起きてよ……」
泣きたい気持ちで軽く揺さぶる。腹の上が濡れている。金属の箱が濡れているのだった。
ぴくり、と指先が震えた。
「備府?」
唐突に、発条仕掛けの人形を思わせる動きで備府は起き上がった。屈み込んでいた矢追の頭と頭がぶつかって鈍い音をたてた。
「いっつ……」
矢追に目もくれずに備府は走り出す。
「備府!?」
慌てて後を追う。これら一連のふざけた出来事がずいぶんリアルな夢である可能性を頭のどこかで吟味し始める。全力で走っているのに備府に追いつけない。
先が薄暗い。備府が宙に浮いたように見え、矢追は瞳目した。近付くにつれ、その原因が華奢な螺旋階段であることがわかる。
「おい備府!どこ行くんだよ!ねぇってば!」
振り向きもしない。まるで声が聞こえていないかのように備府は階段を昇って行く。
二足の靴が階段を叩き不規則なリズムを刻む。
ドカン、とドアの閉まる音がした。鍵が閉まっているかと思わせるほど重いドアに飛び付き、ドアノブをひねって肩で押した。
強風に煽られた砂粒が眼鏡のレンズにあたって小さな音をたてる。風に揉みくちゃにされながらなんとか外に出る。「海」の上だった。
打ちっぱなしのコンクリートが蓮の葉のように円く「海」の直中に浮かんでいる。
ヘリポートほどの大きさはあった。周囲のどの建物よりも高い位置にあるらしく、視界を遮るものはない。沈みかかる日に照らされ、このシティーを覆う「シェルター」まで地平に望むことができた。
そこに滲むように人影はある。
「備府!」
風が弱まり、これ幸いと矢追は走り寄る。胸がざわついている。
「……あれ?矢追?」
振り返り、備府は怪訝そうに矢追を見た。安堵に膝が笑う。
「備府……」
恐る恐る手を伸ばし、肩を掴んで引き寄せる。
「備府、大丈夫?」
「何がだよ」
大きく息をつくと、矢追は備府を抱き締めた。途端に暴れ出すがさらに力を込める。
「なんだよっ……つーかここどこだよ?俺トイレに行ったはずじゃ…」
備府の手から滑り落ちた金属の直方体は、ガラン、と案外軽い音をたてて二つに別れた。中から出て来た和綴じの本には「水」と書いてある。
「もう……なんだよ備府……」
泣き笑いのような顔で矢追は備府にしがみつく。
「こっちがなんだよなんだが……なにこれ」
備府は矢追の腕からすり抜けると古ぼけた本を拾い上げた。
ドオン、とまた爆音がして矢追は我に帰る。
「なんだ今の」
「備府、戻ろう」
水面が波立つ。黒い影が見える。
「なにあれ。でかくね?サメ?」
「いいから、いこう備府」
ざわり、と鳥肌が立った。水面の揺れは見る間に大きくなってゆく。ドオン、足元が揺れる。
巨大な目が光った。波間からぬっそりと亀にしか見えない巨体が現れる。真っ黒なそれは大波とともにこの小さな陸地に乗り上げる。踏み締める前足には一抱えあろうかという爪が見える。
こちらにやってくる。それが。波が。階段は遠い。
今からでは間に合わない。波に足を掬われて「海」に落ちてしまう。矢追は必死で備府を掴むとかき抱いた。
水の塊が体に激突する。水に飲み込まれる。目を開けていられない。二人の体は巨大な力に振り回された。

気がつくと辺りは真っ赤だった。夕日が何もかも真っ赤に染めている。
「矢追、起きろよ」
備府が呼んでいた。
起き上がる。備府は安堵の表情を見せた。
どこからが夢だったのだろう。
不安になり備府の頬を摘んだ。
備府は本物のようだ。とりあえずそれだけ分かれば十分だった。
備府は手にした本で矢追の頭をはたいた。
その本には「水」と記されている。
裏表紙には黒い亀が描かれていた。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2010年09月 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30