備府が戻って来ない。
「おかしいな……」
電話も繋がらない。館長もまだ帰らない。矢追は眼鏡をことさら丁寧に拭いた。
「あの、ちょっと様子を見て来てもいいですか」
「あーその方がいいね。ずいぶん経ってるし」
逸る自分を押さえて矢追は立ち上がった。
トイレのドアを開ける。人影はなかった。個室の扉は全て開いている。
「……備府?」
入れ違いになったとは考えられない。道を間違えたのだろうか。
携帯電話にかけてみたが出ない。
仕方なく戻る。案の定資料室に備府はいない。
「あれ?どうだった?」
「いませんでした……もしかしたら迷ってるのかも知れないです」
「困ったねえ。あ、今携帯鳴ったんだけど、あの子のかな?」
指差す先には備府の携帯電話がある。矢追はがっくりと肩を落とした。
備府は歩いていた。どこへ向かっているのか自分でもわかっていない。息苦しかった。
とにかく外へ出たい。
頭が重苦しく痛んだ。黒い影が視界を横切る。横切る度にその影は大きくなっていく。
備府は強く目を閉じたが、その影は消えなかった。
「天国と地獄」が響き渡り、矢追はビクリと体を強張らせた。
「ちょっとごめんね」
律義に断りを入れ、館員は携帯電話を開いた。
短いやり取りのあとおもむろに伸びをする。
「館長戻れないみたいだ。でもわかったよ、『水』って本は確かにあるってさ」
「本当ですか!」
「なんでも館長が個人的に持ってたらしくて……部屋探して持ってって良いってよ」
矢追は胸を撫で下ろした。戻ったら館長に文句を言ってやろうと心に決める。
「ありがとうございます。いろいろすみませんでした」
館員は軽く手を振って見せた。
「じゃ、館長室行こうか。探さなきゃね、本だけじゃなくて彼も」
「あれ、おかしいな、開いてる」
館長室の扉に鍵を差し込み、館員は驚いた声を上げる。
そのまま引き開けると二人は絶句した。広々とした館長室は水浸しになっている。
どっしりとしたデスクがひっくり返り、床板が持ち上がった奥に金属の箱がひしゃげて転がっている。
箱に開いた縁が捲れ上がった穴は、内側からの爆発の結果に思えた。
「……うわ…なんだこれ」
「……泥棒ですかね」
なんとも間が抜けていると思ったが、矢追は言った。
「泥棒」という言葉自体が既に間抜けだ、と現実逃避のようなことを考える。
「とりあえず、警さ」
『天国と地獄』が再び響いた。館員は反射的に携帯電話を開く。
「あっ、か、館長、大変です、館長室が…え!?はい、えっ……はい……あの、ちょっと…はい、はい。あ、そうですか、はい」
腕を降ろすと館員は頭をかいた。
「さっぱりわからん」