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水族館(4)(連載)

溺れる夢を見た。
目を覚ますと備府は矢追の肩に頭を預けている。
手のひらが温かい。視線を落とす。矢追の手がある。

一番最初に見たのは手だった。ウェットティッシュを差し出された時、どんなに驚いたか矢追には想像もつかないだろう。
次に見たのは笑顔だった。
メールアドレスを聞かれたとき、どんなに嬉しかったかも、赤外線通信の使い方が思い出せなくてつい嘘をついて次の瞬間死ぬほど後悔したことも、アドレスを渡されてからメールを送るまで自分がどれだけ煩悶したかも、矢追に伝えることができない。
備府は矢追が怒った所を見たことがない。泣いた所も見たことはない。
いつもただ立っているだけだ。矢追が歩いて来るのをただ見ている。
どれほどの距離なのか備府にはわからない。
子供じみたいたずらをしかけて、拒否されないことで安心している。
いつか矢追たちは自分に愛想をつかして去って行くのだろう、と思う。
堂仁とのことがなければ忘れたふりをしていられたのかもしれなかった。

「……なんだよ」
離れて行こうとする手を反射的に掴まえた後で備府は焦る。指を絡めて圧迫すると矢追は痛がった。振りほどこうとはしない。怒らない。
『なんで怒らないんだ』
問いを飲み込む。
馬鹿げている、と備府は思う。
目が覚めても肩を借り続けているのは、倦怠感に負けたからだ。
溺れる夢を見ても、ここならきっと平気だ。
備府はまた目を閉じた。

「備府、もうすぐだよ」
二つ手前の駅で矢追は備府を起こしにかかる。備府は寝起きが悪い。荷物が多いので、早めに降りる準備をしたかった。
「ほら、起きて」
備府はうなる。むずかるように矢追の肩に頭をこすりつけた。
「困ったなあ」
思ったより柔らかい声が出たことに苦笑がもれる。
心を鬼にして立ち上がった。備府はぼてんと座席に投げ出され、跳ね返るようにして起き上がると辺りをキョロキョロ見渡した。
「おはよう」
網棚から荷物を降ろしながら笑いかけると、備府はバツが悪そうに視線を逸らす。
「……おはよ」
夏の陽が傾き車内をいっぱいに満たしている。

岡の前に体の大きな男が立った。
「あの、書庫の本を出して頂けますか」
「ええ、カードはございますか?」
「はい」
節くれ立った手が貸し出しカードを卓に乗せる。
「はい、ありがとうございます。書名をこちらにお願いいたします」
男はスラスラと数冊分の書名を記した。ペンが小さく見える。
「『重火器大全』『サバイバル演習2091』『フルカラー菌類図鑑』『特定第二種にまつわる報告概要』ですね?ただいま取り出して参ります。少々お待ちください」
にっこりと笑いかけると男は面食らったような顔をした。
「……申し訳ありません、当館は自動書架を導入しておりませんので」
「い、いや、そういう意味ではない……よろしく頼む」
「かしこまりました」
さして気にすることもなく、岡は階段を降りた。
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