午前十時、今日は初彼女と動物園デートだ。待ち合わせ時間より一時間も早く来てしまった。彼女の姿はまだない。緊張からかソワソワして仕方がない。大丈夫だ抜かりはない、何度も何度も服装チェック、カバンの中身チェック、朝ごはんは口が臭くならないように食パン一枚、コーヒーではなく紅茶を飲んで来た。体臭は問題なし、髪型は少しワックスで。身なりに問題は無いはず。大丈夫だ。天気予報だって何回確認したことか。全ては今日のために。

午前十時半。待ち合わせ時間まで残り三十分。彼女の姿はまだない。

彼女とは大学のサークルで出会った。俺の一目惚れだった。栗色のウェーブがかかったロングヘア、丸みを帯びた栗色の瞳。微笑むとえくぼが出来てとても愛らしいその表情に。

さりげないボディタッチも、こまめな連絡も忘れずに、全ての準備を兼ねたアプローチは彼女の心に届いたのだ、俺の努力は決して無駄で終わらなかった。サークルの帰り道、夜の繁華街、歩道橋の上で告白した。答えはイエスだった。念願の交際がついに叶った瞬間だった。俺はあの時の喜びを決して忘れない。

午前十時四十分。待ち合わせ時間まで残り二十分。彼女の姿はまだない。

彼女と話す毎日はそれはもう周囲のもの全てが色づくような感覚だった。これが、春が訪れる、という事なのだろうか。恋、というものは素晴らしい。人をここまで幸せにしてくれるものだから。
午前十時五十分。待ち合わせ時間まで残り十分を切った。彼女の姿はまだない。

おかしい。ここに来て不安感を覚える。何故なら彼女の行動において、十分前行動は当たり前なのだ。

まだ寝ているのだろうか。ここに来るまでに何か事故にでも巻き込まれたのだろうか。変な男に付きまとわれているんだろうか。不安が不安を呼び、嫌な予感ばかりが頭によぎる。

午前十一時。
待ち合わせ時間になっても、彼女が来る様子が無い。何故だ。嫌なことばかりが思い浮かんで思わずふらついてしまう。青い空には神々しく太陽が昇っていて、対して暑くもないのに嫌な汗が額を流れた。ふと、ズボンのポケットに入ってある携帯電話が光っているのに気がついた。開いて見ると某SNSサイトからメッセージが一件。それは、まだかまだかと待っていた彼女からだった。俺は急いで開いた。そして内容に愕然した。

『やっぱり、貴方とはお付き合い出来ない』
『別れましょ。連絡先消しました。金輪際、関わらないで。』

何故だ。何故。何故何故何故何故何故what?!俺の何がいけなかったんだ。俺の何がダメだったんだ。気に入られようと努力、努力!努力をして!あれは、全部…、嘘だったのか…?

俺は急いで連絡先を開いて彼女に電話をかける。コール音が数回鳴り響いて、出たのは機会音声。何度繰り返しても同じだった。SNSも、メールも。連絡手段全てが。

拒否されてる事実は受け入れがたいものだった。

「…、フラれたのか俺は。」

口に出して、飲み込んで。ようやく理解が出来る。冷静に。とにかく、何かしらダメな要因があって、フラれた。そう言う事だ。

午前十一時半。
こんな状況下でも腹は減るみたいで、放心状態の脳とは違って、俺の腹は随分呑気だ。

「カレー…食べるか。」

目先にフードコートがある。真っ先に目についたのがカレー屋さんだ。食欲を促進する匂いが鼻を刺激する。この際口臭なんてものは気にしなくていい。こうなればヤケだ。俺はただ空腹を満たす為だけに、食う!後、このやり場のない感情のはけ口をカレーに捧げてやる。

フードコートに向けて、足を進める。やはり休日の昼間の動物園というのは、家族連れやカップルが多いみたいだ。仲良さげに寄り添う男女を見ると一気にテンションが下がる。

お目当てのカレー屋さんに着いた。メニューを一通り目で追ってとにかくボリュームがありそうなカツカレーを食べることにした。レジに並ぶとおばさんが無愛想な態度で、

「いらっしゃいませ、お客さん。何にします?」

「え…あ、カツカレー三つください。スプーン一つとお箸も一つ付けてください。」

無愛想というか、敬語のけの字もなっちゃいなかった。

「メンドクセ…カツカレー三つで合計1050円です。」

何なんだこの店員は。面倒くさいならそもそも働いてんじゃねえよ。クソババア!

「1050円ちょうどもらいますねー。レシートは、」
「結構です。」

レシートなんて無駄なゴミはお断り。小さく舌打ちされたような気もしなくもないけど気にしない。俺の興味は全てカツカレーに向いているのだから。

カツカレーを頬張りつつ、周囲の景色をただ楽しむ。楽しげに笑い合う小さな子供たち、動物の被り物をしてる女の子、ベビーカーを押している母親、虎がかっこいいやら、フラミンゴは綺麗だった、と各々感想を言い合っている遠足で来ているであろう小学生達。恋人繋ぎをしている男女。

「あー、カツカレーうんめー。」

一気に気分が落ちたような気がしたのは気のせい気のせい。

午前十二時半。
カツカレーを平らげた俺は背伸びを一回してゴミを捨てにゴミ箱に向かう。

「あれ?」

そこで覚える違和感。
少しフードコートから離れた場所、動物達がいる檻の付近。あれだけの賑わいを見せていたフードコートと反比例。なんだ、この静けさは。


妙な不気味悪さを感じつつゴミ箱を発見した俺はゴミを捨てようと腕を伸ばした、ところで。アナウンスが入った。ピンポンパンポン、というありきたりなBGMと共に流される機会音声。

『ご来場の皆様、本日は田中動物園にお越し頂き誠にありがとうございます。実はこちらの不手際で、ライオン一匹が脱走しました。』

「は?」

『このような事態になってしまい、大変申し訳なく思っております。ライオンが逃げないように出入り口封鎖と共に。各動物コーナーのところに係りの者が立っておりますので、ライオンを見かけた際にはすぐに申しつけくださるようご協力お願い申し上げます。逃げるなら今のうち、です。出入り口封鎖は五分後に完全封鎖します。本当に申し訳ございません。』

ピンポンパンポン。

「いやいやいやいやいや、は?」

ライオン逃げたとかやばくね。え?出入り口封鎖って、なに。は?逃げ遅れた奴に死ねってことか、は?

事態が全くもって理解ができない。いや出来るはずがない。とりあえず五分で完全封鎖を遂げる前に脱出しなげればならない。俺は何故かゴミを捨てずに出口に向けて足を動かした。

午前十二時五十分。
さっきまでの賑やかさが嘘のようにフードコートは静まり返っていた。カレー屋さんの店員も何処かに消えていて、食べかけのものや中身が入ったジュースが倒れていたり。とにかく悲惨だった。

出口に向かう為にはここを通らないといけない。息が切れる喉を休めないで走り続けようとした時。子供の泣き声が聞こえた気がした。これだけの事が起きていて、泣き声の一つや二つはきっとおかしくはないんだろうが、そういう類いのものではない。こう、何か。目の前にとんでもないものがいて、じぶんではどうにもならない、そんな絶対的な危機が迫っているような、救いを求めるようなそんな感じだった。

俺は生唾を飲み込んで恐る恐る泣き声のする方へ歩を進めた。そこは、木陰と岩で出来ているジュラシックパークを連想させるような場所だった。そして、そこには、小柄な男の子と、ライオン一匹。

「いや、いやいやいや。」

思わず後ずさりした。非現実過ぎて、受け入れきれない。おかしい。一体なんだ、なんなんだ?目の前に起こっている出来事は、これは、何なんだ?

「うぁ…お母ざ…お母ざんんんどこおおおうああああああぼく死んじゃうの…やだあああお母ざああああ」

泣いている。小さな体を恐怖で震わせて。大きな声で助けを求めている。ライオンは、静かに佇んでいる。

どうする?

「いや、どうするってなんだよ…」

俺は、警察じゃないぞ。自衛隊でもない。特別鍛えられているようなSWATでもない。俺にとってあんなのテレビの中だけの世界だ。無理だ、無理無理。麻酔銃なんて所持してないし、ライオンの捕獲の仕方なんて知らない。それに、俺の身に何かあったらどうするんだ。まだ死にたくない。ここは、見なかったフリをして、係員を呼んでくるのがベストだ。……いいのか、見なかったフリなんかして。泣いてるんだぞ、子供が。怖くて怖くて誰かに助けてもらおうと、声をあげているんだぞ。救いの手を差し伸べているんだぞ。

「くっそ…こええ…こええけど、やるしかないのか…?」

このまま見て見ぬフリなんて、俺の良心が痛む。それに何より差し伸べている手を振り払うなんて事は俺にはできない。くっそ。

くっそ、くっそ!……やってやる。俺の装備は…、と考える。

さっきカツカレーを食べた時のスプーン、割り箸くらい、か?カバンの中身は対したものが入っていない。携帯電話があるが警察を呼んだところで今どうにかなるわけじゃない。どうする。

「っ、ふぇ…ゲホゴホっ…おかあさ…っ」

悩んでいるヒマはない。やってやる。もうどうにでもなれ。

考えなしだった。とりあえず俺はライオンに飛びかかった。男の子はびっくりしたように、ぽかんと惚けた表情をして泣き止んだ。良かった。ライオンはすぐさま攻撃体制にはいった。鋭い爪を振りかざして俺の服を破いてくるので、俺は迷わず逃げた。

無理。

無理無理無理!死ぬって!まじで!

後ろをクルッと首だけ向けたら、すごい極悪なツラをしたライオンがものすごい速度で追って来ていた。標的を男の子から俺に変えたらしい。良かった。…良かったの、か?

あの男の子が無事お母さんに出会えていたらいいなと願いつつ。

このままだと確実に死ぬ。

どうする?全力で走りながら必死に考える。その間にも距離はどんどん追い詰められる。

「っ…た、高いところ!!!とりあえず高いところに!」

頭の中にポンっと浮かんだアイデアを元に、右に曲がるとそこには猿のゾーンがあった。此処はオランウータンやニホンザルが見られる猿の種類ばかり集められている場所みたいで、猿がいつでも木登りできるように、木がたくさん植え付けられている。そして俺は迷わず木に登った。一番上を目指して。隣の木に昇っていた猿が「なんだてめえは」とばかりに威嚇してきたがそれどころじゃない。

しかし、そこで。焦りすぎたのだ。携帯電話はズボンのポケットに入っている。そうズボンの尻ポケットに。

あ、と思った時には既に遅し。携帯電話はズボンのポケットから地面に落下。そして、木の根元には怒り狂ったライオンが一匹。

絶望だった。

助けを呼べないこの状況。結局俺はこの状態を夕方になってまで継続することになった。木の上で泣く泣く待機。ライオンは微動だにしなかった。ジィっとこっちを見てくるだけで。

この状況を救ってくれたのは、さっき助けた男の子だった。どうやらあの後無事母親と合流出来たらしく、俺のことを気にかけて相談してくれたみたいで。母親が担当の方二人と、麻酔銃を持った警察の方が助けてくれた。

何故場所がわかったのかと聞いて見ると、男の子はこう答えた。

「こわいこわいー!ってなってるときはね、なんとなくね、ふいんきでわかるんだ!」

雰囲気、な。なんてツッコミが出来る余裕なんてなかった。どういうことだってばよ。

兎にも角にもライオンは無事に捕獲されたらしく。檻を噛みちぎって脱出したんだって。そこまでして出たかった理由ってのはなんなんだろうか。野生にでも戻りたかったのか。なんて首を傾げるばかりだが。

彼女にドタキャンされた挙句にフラれるわ、カレー屋さんのおばちゃんは頭にクるわ、ライオンに追いかけられるわ、携帯電話は落として壊すわ。散々な一日だったけど、

「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう!」

笑顔を守れたのなら俺はそれで満足だ。