モラルとは何か?
彼の苦手な「前提を疑う」思考である。
彼はなにか重大な過ちを犯しているわけではない。
昼間に街中で茶を飲んでいるだけである。
「……風邪をひくぞ」
「……ああ、ドライヤーが見つからなかったんです」
30分遅刻した岡は、なんでもないことのようにカップに口をつける。その髪はしっとりと冷たそうだ。
「体調が悪いなら、そう言ってくれ」
「ちょっと寝坊しちゃったんです」
そう返す声も掠れている。
「郡司さんに会うのが楽しみで、寝不足」
ほんの少し目を合わせた後に伏せる。
切れ長の目尻は赤味を帯びていた。
「……そうか」
郡司には何故こんな状況に自分が陥っているのかいまいちわからない。半分上の空で岡と会話している。
飛行機博物館って飛行機の実物もあるんですよね?
飛行機の実物……実物はあるな。
いくつくらいですか?三つ?
三つ……うん、いや、もっとある。
どれくらい?
どれくらいか?ああ……どうだったか……確か10はある。
飛行船はあるんですか?
うん?飛行船?飛行船もある。
今何を考えてるんですか?
俺はどうしたらいいのか……
ハッと顔を上げると岡は微笑んでいた。
郡司がいかに朴念仁と言えども勝利を確信する笑みである。
しかしそれは発信者が女性だったら、という修飾がつく。
女性からこの笑みを向けられたら、少しは恐れを払拭して誘いをかけることができるであろう、とろける笑みである。
しかし岡は男性であり、郡司は自分の目に何らかのフィルターがかかっていることを疑っていなかった。
郡司にとって岡と茶を飲むことはモラルから外れかけているのだ。それはつまり、郡司の心境の問題である。
岡の潤んだ目が自分の都合のいい幻なのか、発熱のためなのか、それともそれ以外の要因なのかがわからない。
「初めてのデートって、やっぱり緊張しますよね」
トロッコの切替えポインタのレバーは重い。重いせいで、半分まで持ち上げると後の半分は自重で勝手に振り切れる。
道を外れたのは岡に出合った瞬間かも知れない。
郡司は舌を噛みそうなので返事が出来なかった。