とうとうやってきたのだ、と備府は思った。
あれだけ予防線を張ったというのに、何の意味もなかった。胸をかきむしりたくなるような感情に支配されていた。
矢追は明らかに備府を避けている。あんなにまとわりつかれていたのが嘘のようだ。最近では目が合うことすら減っていた。
冷たくなったというわけではない。備府が話しかければ笑顔で応える。会話も弾む。だがそこに見えない壁があるかのように距離を感じる。
ぱったりとなくなったスキンシップのせいだろうか。そう思い備府が何気なく伸ばした手を矢追は振り払った。
『あ…ごめんごめん、ちょっとびっくりして』
自分にだって、矢追が本当に笑っているかどうかくらいわかるのだ。
もう備府にはどうすることもできない。
くだらないいたずらも、拒否を恐れて仕掛けられない。
矢追は自分を見限ったのだろう。やはり無理だった。この半年はきっと優しい夢だったのだ。こうなることは予想していたはずなのに。

入力し終わったカードを箱に詰め、傍らのカートに積む。
席に戻ろうとした備府は椅子の足に蹴躓き、デスクの上のカードをはたき落としてしまった。
バラバラと数十枚のカードが床に散らばる。
今日は矢追はバイトに入っていなかった。
他のメンバーは特設の手伝いに回っている。顔色が悪いと気遣われて残され、入力を屍のようにこなしているのだ。
今ここに矢追がいたら何というのか、備府にはもうわからない。
拾い集めながら矢追との出会いを思い出す。
あの時自分は人に見られることに恐怖すら抱いていたのに。いつから矢追のまなざしを必要とするようになったのだろう。
今日は堂仁の家に泊まりに行くらしい。もっと早く、堂仁より早く矢追と会っていたら、一番の友人になれたのだろうか。
友達さえいればもっと人の心がわかるようになり、嫌われることもなかったのかも知れない。
いや、こんな調子で責任転嫁しかできないから嫌われたのか。
酒を飲めば矢追に自分の落度を尋ねられるだろうか。もう会話するのも嫌になったのではないだろうか。
備府のタイピングの速さは見る影もない。

「うっとうしくないっすか」
パチリ。
「確かにうっとうしいわねえ」
パチッ。
来野と穂江は部室で碁を打っている。恒例の飲み会も山場を過ぎ、周囲にはちらほらと人が転がっている。
「ケンカかしらね。初めてじゃない?」
パチッ。
「ケンカでも点火でも構わないけどとっととどうにかして欲しいですよ……こっちまで気が滅入る」
パチリ。
盤上では穂江の黒が中央に切り込んでいた。
来野の白は左下に大きな地をつくっている。
「備府君澱んでるわよねえ」
パチッ。
「どうせプリンを勝手に食べたとかそんな理由じゃないかなー」
パチリ。
「そうかしら」
パチッ。
「希望的観測ってやつです」
パチリ。
「……あ、ちょっと待った!」
「『待った』はなしよ」

パチッ。