スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

土曜日のピーマン(そうじとシャワートイレ)

ガストのハンバーグを食べ終わっても、まだメールの返事は帰ってこない。

「八幡くん」
「爽島」
そう呼び合うようになって8年経っていた。中学に入って初めての席替えで隣りになったその日から。
呼び名は変わらなかったが呼び掛けに含まれる感情は変化した。変化し続けて、今に至る。
(きっと今日はサークルの仲間と飲みに行っているだろう。そこにはあの子がいるのだろう。朝帰りしてきてあっけらかんと謝るに違いない)
爽島の準備は万端だった。

合鍵で部屋に入ると服をジャージに着替えてマスクをし、髪をまとめて三角巾で覆う。エプロンをつけてポケットにゴム手袋を入れておく。心が浮き立って来るのがわかった。
私物をまとめる。部屋着とバスグッズ、ドライヤー、マグカップ、貸していたCD、本、枕、携帯の充電器。手際よくキャリーケースに詰め込む。十分とかからなかった。キャリーケースは玄関に置く。
(軽い)

部屋干ししたままだった洗濯物を取り込み、きれいにたたんでクローゼットにしまう。
自分が普段からこまめに掃除していたのはこの日のためだったのではないかという気すらしてくる。
ハンガーを外に出し、ベランダを確認する。余計な物はない。ポリバケツに分類済みのゴミがあるだけだ。窓を拭くのは明日にしよう。
窓を閉める。6畳のフローリングの部屋に上からはたきをかけていく。エアコンのフィルターを外して風呂場に置く。雑誌の間になにか挟まっていないかめくって確認する。手袋をはめる。濡れぶきできるものには消毒液をつかった。布団カバーの類ははがして洗濯機に放り込む。
(これも明日)

爽島の部屋に八幡の痕跡はとうにない。消す必要もなかった。半年前に一人暮らしを始めてから、八幡は一度も爽島の部屋に来ていない。
冷蔵庫を開ける。予想通りほとんど空だった。しなびたモヤシを捨て、拭く。電子レンジも拭く。
床は埃を舞い上げないよう静かに雑巾をかける。
(動いた分だけきれいになる掃除はとても理にかなっている)
しかし掃除をすることが理にかなっているわけではなかった。

八幡との8年を思い返す。彼に甘やかされてばかりだった、と爽島は思う。
台所の流しに水をため、ヤカンに湯を沸かす。流しの下の物を出し、拭いて元に戻す。湯が沸いたら流しに足してぬるま湯にし、重曹と洗剤を溶いて換気扇と五徳を漬ける。
湯が冷めるまでにトイレを掃除する。トイレットペーパーのストックは充分だった。
古い歯ブラシで換気扇と五徳の汚れを落とす。水を抜いてよくすすぎ、乾拭きして元の場所に戻す。蛇口周りをナイロンでみがく。
(今日はここまでにしておこう)
明日は6時に起きるのだ。
メールはまだこない。

体が痛かった。布団を使う気になれず、枕だけで床に寝たのが原因だ。
シャワーを浴びる。鏡を見るとやはり楽しげな顔をしている。ずっとこうしたかったのかも知れない。彼の心変わりのせいになどできないのかも知れない。
服を着て髪を乾かし、紅茶を淹れてゆっくり飲んだ。
エアコンのフィルターを洗い、窓を拭き、風呂場を掃除する。
布団にコロコロをかけながら、間抜けな名だ、しかしコロコロとしか呼びようがないのも確かだ、と思う。

9時になるのを待って洗濯機を回し、爽島は商店街の朝市に出かけた。買う物は決まっている。
快晴だった。詰め放題のピーマンはつややかだった。薄いビニールを手に取る。
「おねえちゃん、袋はこうやってのばしてからじゃないと」
六十がらみの婦人に声をかけられる。
「一袋百円だから二十個は入れないと元取れないわよ」
婦人はにこにこと笑いながらみっちりとピーマンを詰めている。
青臭いにおいがする。

八幡はピーマンが好きだった。爽島はピーマンが嫌いだった。給食でピーマンが出ると、いつも八幡に食べてもらっていた。
ピーマンを食べられるようになったのはいつだったか。最近では美味しいと感じるようにもなっていた。
それでも八幡はまだ爽島がピーマンを嫌いだと思っている。彼女が八幡にピーマンを渡し続けていたからだった。おたがいにとってそれは習慣で、彼が好きなものを食べられるのなら満足だった。

部屋へ戻り、冷蔵庫にピーマン5袋分を詰め込む。食べきれないだろう。あの子もピーマンが好きだから、二人でパーティーでも開けばいい。
洗濯物と布団を干し、玄関を掃く。掃除は全て終わった。ゴミも捨てて来た。メイクも直した。あとは帰りを待つだけだった。

「……ごめん、メール気付かなかった」
「いいよ」
「ほんとごめん、OBとか来て盛り上がっててさ」
「うん」
「……ちょっとシャワー浴びてくる」
「わかった」
驚くほど心は静かだった。今なら何をされても許せるような気がしていた。
彼にされたいたずらの数々を思い出す。
彼がするいたずらにあの子はどんなふうに笑うのだろう。
ふと思い立って風呂場の扉を開けた。八幡は体を洗っているところだった。
「なんだよ」
「なんでもない」
にやりと笑って見せると、笑い返してくる。
(好きだ)
「流すぞ、かかるから出ろよ」
「流したげるよ」
シャワーヘッドをとり、湯になるのを待たずに浴びせる。
「うわっつめてっ」
「ふふっ」
泡が流れ落ちる。爽島はシャワーヘッドを放り出すと八幡を押し倒した。
「おいどうしたんだよ」
顔中に口付けた。
「爽島?」
しがみつくと頭をなでてくれる。
「八幡くん」
「うん」
「八幡くん大好き」
「うん」
目をのぞき込む。シャワーの音が優しく響いている。
「……もう行くね」
「……」
「八幡くん他に好きな人できたんでしょう?」
「……」
「ありがとうね、今まで」
どこかで聞いたようなせりふしかでなかった。疑問ではなく、ただの確認だった。
スニーカーに足を突っ込んで爽島は外に出た。やはり快晴だった。

冷蔵庫をあけた八幡は何を思うだろう。
もしかしたらそれはそれとして美味しく食べるのかも知れない。しかし、八幡がピーマンを好きじゃなくなっている可能性だってあるのだった。爽島が実はピーマンを嫌いではないように。

(これをきっかけに大嫌いになったりしないかな)

濡れた顔を日差しに照らされ、爽島はやけにビブラートのきいた鼻歌を紡いだ。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2010年05月 >>
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31