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休館日(3)

ありふれた話だと岡は思っている。
あるところに男がいた。男はうんざりして白い手で片頬を覆っている。それが向けられるのはこの状況であるし、熱と湿気を孕んでいる相手の眼であるし、そもそもの原因である自分のだらしなさでもあった。
「もういいでしょう」存外深く口の中を切ったらしく、思わず血液混じりの唾を吐く。相手は、食いしばった奥歯の隙間から馬鹿にしやがって、と絞り出した。
これはずいぶんと腫れるだろう。
あの人に心配されてしまうだろうな、と岡はため息をついた。
ありふれた話だ、と
岡は思っている。自分にのしかかる男を眺めながら、一番疲れない方法を模索している。

知っていたわけではないのだから、弁解すべきだったろうか。
どちらにしても、男は岡に手を上げただろう。
自分の女の浮気相手が自分の浮気相手だった、とうわ言にも聞こえる真実を突き付けられた男はどこか途方に暮れたような顔をした。
「わざとじゃないんです」
岡はわざとのんびりと言った。女はとっくに逃げ出した。かわいい八重歯が無事でよかったと岡は思う。
わざとでたまるか、と男はうめく。
「いつからなんだ」
「今日が初対面です」
彼女は酒が入った席での与汰話がいたく気に入ったようだった。このままではピロートークも怪談になるのではないかと懸念していたところだ。
特に飢えているわけではなかったが、ぐずぐずしていたせいでまたとない機会を失ったともなれば、手近なホテルに連れ込むべきだったと悔やみもする。
「これから映画を見るところだったんです」
映画を見ながらの予定だったんです、と言わなくても通じたようだった。男は怒りを持続させるのに苦労しているらしい。膝から乗り上げ岡を押し付けていたベッドから体を起して胡座をかいた。周りに散らばったディスクのパッケージはほとんどが赤と黒を基調としている。
ホラー、スプラッタ、サスペンス、ホラー、ホラー。
男は思い出したようにディスクをはたき落とす。
カーペットのせいでほとんど音はたたない。
「どうします?」
最後に誘う程度には自分はこの男を気に入っていた、と岡は思う。

休館日(2)

図書館が閉まっていることを無理矢理に理由にして、穂江はMセンターへ向かった。
酷く億劫だった。彼の妻から便りが届いた時、できるものなら封を切らないまま捨てていただろう。
彼は目覚めないようだ。どうやら昏睡病らしかった。
受付で尋ねると、彼がいるのは看護士室の隣りだった。音の立たないドアを開くと片側の壁には大きなカーテンが引いてある。カーテンの向こうには窓があって、窓の向こうには看護士室があるはずだ。
やはり彼女はいた。
「おひさしぶりです」
「久し振り」
やつれきった顔にそぐわない笑顔で彼女はベッドわきの椅子から立ち上がる。

夫の病床に元恋人を呼ぶ妻、という状況に偏見を持つような経験はなかったはずだ。
「呼んであげてください。先輩が呼んだらもしかしたら起きるかも知れないし」
バウムクーヘン食べ放題、と心の中で唱えながら男の顔を覗く。
いつも見ていた寝顔のはずだが、別人のように見える。
「記年くん」
いつも寄っていた眉間の皺がない。
「ごめんなさい、先輩」
振り返ると、見覚えのある赤い革手帳を彼女は差し出している。
「デリカシーのない男ね」
「わたし、どうしても気になって……」
「どうだった?」
面白かった?と重ねて聞くと後輩は泣きそうな顔をした。
「別に気にしないで。そんなの何も言わずに捨てればいいのに。真面目なんだから」
「記年はきっと今でも」
「あなたは自分の手帳に書いておけば良いのよ。彼なら自分の入院なんて一大事、目を覚ました時に記録がないのを悔しがるでしょうね」
後輩は静かに泣いている。
面倒な男だ、と穂江は思う。

休館日(1)

多くの図書館がそうであるように、雲英図書館も月曜日が休館であった。日曜の午後四時ともなれば、どこか開放的な空気が館員の間に流れる。
西側の移動梯子の上から雲英は図書館を見回す。ここにはセカンドシティーの全てがあった。一分一秒ごとに、砂のように言葉は降り積もっていく。
本棚の隙間を縫って動く人の頭を見て、昔のTVゲームとの相似を彼は見出す。その思考は経験から得たものではない。
人の少ない歴史書の辺りに見掛けない男と岡がいる。二人は本に用があるわけではないようだった。すがるようにして何かを言い募る男と、まるで取り合っていない岡。何度も見た光景だが、雲英は注意深く観察した。

「何も言わないんですか?」
図書館の戸締まりは大仕事だ。何百とある鍵を確認しなければならない。一文字たりとも失うわけにはいかないのだ。
「うーん、趣味悪いんじゃない?君」
愛しそうに窓枠を撫でながら雲英は言う。
「……逆です」
西日が高窓から差し込み光の柱を作っている。飴色に磨き込まれた床板が僅かに盛り上がる。
「見る目がないんですよ、僕を選ぶなんて」
米粒がこびりついた釜を見たような目だった。
「あっそう」
雲英はその目を見ない。岡は苦笑する。
「聞いておいてそれですか」
ガチャリという音を立てて錠を回す。
「そう言えば私さ、もう一人くらい見る目ない人に心当たりがあるよ」
「びっくりするほどどうでもいい情報ですね」
「……ほらあのがたいのいい」
「知ってます」
二人はいつものように、何かの儀式のように、彼を閉じ込める準備をする。
「……明日、会うんです」
大扉の前で二人は向き合う。雲英は中に、岡は外に。
雲英は肩を竦めた。
「君も懲りないね」
鍵を岡に手渡した。その手はぎりぎり自然な時間だけ触れ合う。
「泊まっていかないか?」
上がる口角を手で覆いながら雲英は言う。
「……もっと本気で引き止めてみたらどうです?」
片目をすがめて岡はなじる。どちらの意味でも同じことだった。
雲英が空の下を歩いたのは遠い昔のことだ。
もう庭師の真似ごとは御免ですからね、そう言い置いて岡は扉を閉じた。
最後の鍵は、外から掛けるのだ。

螺子の回転(2)

目覚めはスムーズだった。意識が急速に浮上し、矢追はぱちりと目を開く。顔の辺りに持って行こうとした手が驚愕で宙ぶらりんになる。備府の見開かれた目に入りそうになって慌てた。
自分は床に寝ている。備府はその横に寝ている。辺りはたぐまった敷き布団と掛け布団で埋もれている。
見上げるとベッドはマットレスがむき出しになっていた。
「……落ちた……んじゃないよね?」
寝起きは声が掠れている。
備府は首を勢いよく横に振り、振った勢いで寝返りを打って背を向けた。
「……落ちた」
寝起きのせいか、声が震えている。
「落ちたの……?」
縺れた髪の毛に手を伸ばした。備府が身動ぎする。
「……お前怖くねえの?」
備府の言葉でようやく昨日の出来事を思い出す。髪の毛を引っ張らないように気をつけながらほどきにかかる。
「うーん」
もしかしたら他の心配事と相殺されているのかも知れない。
自分の恐怖など備府の前では取るに足りないように感じる。
備府は頭を振って矢追の手を払うと向き直った。
「もうあのバイト止めようぜ」
「うん、そうだね」
「あの図書館にも行かない」
「うん」
「岡さんたちとも会わない」
「うん」
「それで大丈夫だよな?」
「それがいいね」
「大丈夫だよな……?」
「……大丈夫だよ」
確証がないことはお互いわかっている。
備府は自分に確認するように一つうなずき、勢いよく起き上がった。
「備府寒いよ」
「知るか」
矢追を足で転がして敷き布団を引っ張り出すと、ベッドの上に広げ直す。
矢追の目の前に、少しよれたチェック柄のトランクスに包まれた備府の尻がある。
「起きろっ」
備府に掛け布団も引き剥がされる。渋々起き上がってあぐらをかいた。

布団を敷き直しながら懸命に目を瞬く。自分がしたことがずいぶん気色悪いような気がする。
矢追は親でもなんでもない、と当たり前のことを脳内で呟く。
違う、別に精神的な要因であのような行動をとったわけではない。
「寒かったから仕方ない」
「そうそう、仕方ないよね」
うっかり口に出ていたらしい。あやすような口調にむっとして振り返った。
「元はと言えばお前が床で寝るって……」
備府の口は開いたままになった。視線を追って自分の足の間に目をやった矢追はちょっと笑い、申し訳程度にシャツを引っ張り下ろす。
「これは失敬」
「なんでだよ!」
「いやなんでだよと言われても……あの、ほら、朝だし」
「朝?……ああ、朝か……朝?」
「僕も男なんですけど、そんなにおかしいですか?」
何かすごい衝撃を受けたが、備府自身にも意味がわからない。
「いや、おかしくはないな」
「おかしくはないですよね」
矢追はすでに半分笑っている。
「お前男だもんな」
つられて笑いそうになり、慌てて頬を引き締める。
「いっつも澄ました顔してるくせに」
苦し紛れに投げた「だっせぇ」という一言がスイッチを入れたらしく、矢追はとうとう声を上げて笑い始めた。
「確かに、確かにだっせぇよね」
「あーもうお前黙れよ」
「もーなんなの備府、どうしちゃったの」
「どうもしねえよ!なんで俺が気まずくなんなきゃいけねえんだよ理不尽だっ」
「あ、ほら見て見て、だんだんもとの静けさに」
「見ねーよ!!」

螺子の回転(1)(連載)

矢追は岡の手元を凝視した。掃除ロボットに回収されたはずの本である。一見した限りでは折り目一つ付いていない。
何かがおかしい。岡のいつもの笑みそのものが疑惑の根源ではないか。
嵐の匂いを嗅いだ渡り鳥のように、彼は足先に力を入れた。
『怖いですね』
岡はそう言ったように見えた。滑るような動きで間合いを詰めると矢追に本を手渡す。思わず受け取った矢追を横目に備府に近付き、ぐいと顔を寄せた。
鼻がぶつかりそうな距離で、岡と備府は見つめ合っている。

一分もかからなかっただろう。岡が顔を上げると備府はふらりと地面に腰を落とした。
次に岡は矢追に迫った。
これだけ黒い瞳も珍しい、そう思う矢追の目前で岡は二言三言呟いた。吸い込まれそうなまなざしの奥で何かが動いている気がする。
『見てしまった』と思ったのは初めてではない。人込みを裂いて佇む岡が脳裏に浮かぶ。意図的に忘れていた光景だった。
微かな震えがこめかみを走り、次の瞬間に音が帰って来る。
耳鳴りと目眩が同時にやってきたが、塞ぐ前に収まった。
「……聞こえる」
いつの間にか息を止めていたらしい。岡が離れるのを待って、矢追は深い深い息をつく。現実離れした膨大な情報をどう整理するべきか全くわからない。
冷静を装っていられるのはすぐ後ろに備府がいるからだった。
「それはよかった」
なんでもないことのように岡は笑う。やはりいつもと寸分違わぬ笑みだった。

「……矢追」
異常な緊張が解けた二人は疲れ切っていた。
理屈を求める元気もない。今はとにかく安全な場所で眠りたい。
岡から逃げるようにしてほとんど無言でなんとか備府の部屋まで辿り着き、夕飯も取らずに布団にくるまる。
備府は渋っていたが、矢追が床で寝ることはあきらめたようだった。
「……なに?」
「寝たかと思った」
「寝てないよ」
「寝れねえ」
すぐ横のベッドの上で寝返りをうつ気配がする。
「……なんだったんだろう」
「……明日考える」
「そうだね」
「なあ…矢追」
「ん?」
「寝るまでなんか話せよ」
「……なんかって?」
豆電球の明かりでは布団の塊しか見る事ができない。
「なんでもいい」
「なんでもいいの?」
「……声」
「声?」
「……聞こえないのは困る」
「……うん」
「なんでもいいから、」
「……うん」
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