7月29〜31日まで宮城にボランティアに行ってきました!
初めてのボランティアで猫も被れないほど緊張しておりましたが、大変素敵なおじさんやお姉さま方に面倒を見ていただき、たくさん助けていただき、なんとか生きて帰ってこられました。
まず、
参加して本当に良かったと心底思う。
29日の夜行バスで出発。
30日は朝から東松島市でビニールハウスの解体作業を1日中やりました。
夜は、小学校の音楽室で就寝。
31日は5時起床で、朝から石巻&女川を見学して、9時からなるせ市の中学校で瓦礫撤去作業をしました。
初日、まず作業前に言われたのは、ここは遺体捜索されていない地域です、ということ。
正直、まじか、って思ったけれど、地元の方の「見つかることは良いことだからね。いまもだれかがどこかで必死で探していらっしゃる大切な人なんだから」という言葉に、納得した。
だからね、なんだかとってもあったかいっていうのかな?、そういう気持ちで作業を開始出来たのでした。
………とはいえ、やっぱり結構気持ちの面で疲れた。
シャベルの先がコツンと何か固いものにぶつかる度に、緊張して。
でも、自分のこの目で見て、肌で感じたこの経験って本当に貴重だと思うの。
ビニールハウスの解体がどれほどまでに大変な作業なのか。
ヘドロがどんな匂いでどれほど重いのか。
身をもって知ることって本当に大事。
遺体捜索されてない地域があるって聞いたら、テレビの前の私は間違いなく
「え、捜索してよ、頑張ってよ」
なんて無責任なこと思うに決まってる。
なんにも知らない無知な私は、そういうことを平気で口に出しちゃうような愚か者なの。
中学校の校庭を1メートル掘ったところから家の瓦が出てくるなんて全然知らなかった。
校庭1mだよ?
いったい、遺体捜索といったら何mまで掘ればいいの?
朝の石巻・女川で待っていたのは、本当に目を背けたくなるような現実だった。
でも、様々な現状を目に焼き付けられたことに感謝したいって思うの。
自分の目で手で知るということに意味があったって思う。
私、テレビの箱の中の世界と、自分が生きる日常が同じ世界だということを忘れがちになってた。
本当にばかみたい。
今回参加して目の前の現実を手に取ったことは本当に貴重な体験でした。
中学校の校庭に広がるありとあらゆるカケラを拾いながら、これ一つ一つが誰かの夢のカケラかもしれない、あるいは一つ一つが遺品かもしれないんだと思ったときには言葉が出ず、ただ作業の手を動かすしかできなかった。
校庭地下1mに埋まっていた瓦は、誰かが夢見て叶えたマイホームのてっぺんに煌めいた瓦だったのかもしれない。
たとえ遺品ではなくとも津波の遺品であることは間違いない。
どんなに惨澹たる現実を突きつけられようとも、そこに漂ってくるのはなんとも悔しいくらい優しい海のかおりで。
それが、その優しいかおりがやるせなさを運んできた。
胸を抉られるような感覚を味わった。
校庭のカケラの分別をしていると、徐々に機械的作業になってしまったりもするの。
はい、これは燃える。これは燃えない。これは、あ、木材かな。って。
でもその中に時折現れる、自分のうちにあるものと同じお皿や、英語速単が現実である感覚を呼び覚ましてくれた。
心臓を捕まれるような、そんな感覚。
だれかが使ってたものだったんだもん。
そして、この持ち主はもしかしたら私だったかもしれないという背筋が凍るような恐怖感。
3月12日から、うちの家族は福島〜宮城の2泊3日海沿い旅行を計画してたからね。
たまたま私じゃなかっただけだもん。
復興のお手伝いって本当に気が遠くなるような作業だった。
やってもやっても進んだ気がせず、心折れそうにもなった。
でもね、海沿いであっても、まわりがどんなに壊滅状態でも、道路は開通していて、だから私たちは行けたんだよね。
道は道としてその役割をしっかり果たしてた。
あの日からいつもいつも誰かがやってきてくれたからこの道だって道として動いてるんだよね。
顔も知らない人たちに心底感謝し、敬意をよせた。
私たちは微力ではあるけれど、決して無力ではないと思った。
本当に勢いで、知人ゼロのボランティア団体に申し込んで、でも本当に行って良かったって思う。
30日未明にけっこう大きい地震あって、多くの方からメール電話つぶやきをいただきました。
心配をおかけしました。
この日常だっていつ壊れちゃうか分からないんだよね。
そう思うと、本当に全てのことが愛しくてたまりません。
この日記を公開するかずっと迷っておりましたが、公開する決心をしました。
さっぴょんが帰ってきて一月くらいすると精神面での疲労がくるって話をしてて、けっこうきてたんだけど、やっとなんとか消化できてきたので。
長いのに読んでくれてありがとうございました。