名古屋に行ったときに付き合ってもらった『ゴッホとゴーギャン展』。
ゴッホはともかくゴーギャンは好きなタイプの絵じゃないです(笑)
ベタベタな絵は好みじゃないので。
でもこういう展示ってなかなかないから面白そうだったので。
初期ゴッホって意外と暗い。
ここらへんゴーギャンと通じるものがありそうな気がする。
ゴーギャンは脱サラ(笑)してて、庶民派というか常識的っぽい雰囲気。しかも初期はベタ塗りちゃうやん(笑)なぜそのままいかない?(笑)パナマに渡ったのが多分分かれ目だったな。ブルターニュならベタ塗りにはならなかった気がする。
ゴッホで好きなのは、『グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝 』。
黄色とか青とかの絵自体はわりときっぱりとした色のイメージだったけど、こういうパステルカラーの絵も素敵でした。
ゴッホとゴーギャンの共同生活は実際短期間で終わったそうだけど。
ゴーギャンを迎えるにあたって、ゴッホはゴーギャンの寝室に飾ろうとひまわりの絵を描きまくってたらしい。
すごい重いなって笑ってしまった(笑)
しかもなんでひまわりかっていうと、以前ゴーギャンが気に入ってたからとか(笑)
ゴッホ、ヤンデレやん。
有名な耳切り事件も諸説あるけど、行かないで!的な耳切ならゴーギャンはそりゃトラウマだね。
ゴーギャンも可哀想だし、ゴッホも可哀想。
もどかしくて悲しいなぁ。
そんなゴッホとゴーギャンですけど、お互いリスペクトしていたのは間違いなさそう。
ゴッホの椅子とゴーギャンの椅子。
ゴッホがゴーギャンのために用意した椅子はひじ掛けがあって立派なのに対して、ゴッホの椅子はひじ掛けのない素朴な椅子。
ゴーギャンが去る前にゴッホが描いた『ゴーギャンの椅子』。
ゴーギャン本人は描かれていないにも関わらず、ゴーギャンの存在感がある作品。
描かれている本は、ゴッホがゴーギャンが黄色い家に来る際にプレゼントしたものかな。
本人がそこにいないことへの寂しさと愛用品にすら込められる親愛が入り交じってるように思います。絵自体もゴーギャンの作風に寄せて描いているように見える。
対になっている『ファン・ゴッホの椅子』は、パイプやら玉ねぎやら描いてて好きなものいっぱいな感じ。時間帯も昼間のよう。
一方、ゴーギャンも椅子を描いてます。
ゴッホが亡くなって11年?経ってから、『ひじ掛け椅子のひまわり』を制作。
ひまわり=ゴッホでしょう。そして黄色い家でゴッホが用意した椅子。
この絵を見て、ある構図を思い出しました。
好きな映画のシーンで、想い合う2人だけど結ばれなくて、2人のシャツを重ね合うの。
あのシーンでぶわーって号泣したんですけど、同じようにぶわーってなった。
展覧会最後、こんな言葉が。
「 作家のジャン・ドランは言う。私が”フィンセント”という言葉を発するとき、その声は優しいと。彼の想像は当たっている。……その理由は、言うまでもない」
いい展覧会だった。
ただ、私はせめて女の子と一緒に行くべきだった。出てきた後、気まずくて仕方ない(笑)